これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年1月12日「イザヤの預言を」(マタイによる福音書8章14~17節)

 前回から、主イエスの救いの行ないに関する、8・9章の箇所を丁寧に読んでいます。5~7章の山上の説教と異なり、主に、主イエスの癒しの業と奇跡の業とが記されています。それでは、福音としての意味は今までよりも薄いのかといえば、決してそんなことはありません。前回も、周辺へ来られる主イエスと、信仰の枠からはみ出した(もともと入っていなかったり、追い出されたり)方々の信仰が主イエスによって驚嘆されるという出来事がありました。今日の箇所も、単にぺトロのしゅうとめや大勢の方々がいやされたことだけではありません。特に三つのことをみていきましょう。まず第一に、16節後半です。「言葉によって」です。悪霊を追い出すのも、病人をいやすのも、言葉によるのだということです。マタイ福音書記者は、いやしを言葉と全く別のものとして分けて考えるのではなくて、主イエスのなさる業の全てを「言葉」という視点で捉えます。
 第二に、17節に描かれておりますように、主イエスの業をイザヤ書の預言の成就として捉えます。つまり単にいやしたのではなくて、「負い、担った」ということです。主イエスは、自分のほうは何も変わらないで、高い所にいて、下々にいる人々をいやしたのではありません。自身の身にその全てを担われました。ここで既にマタイ福音書記者は、十字架、更には復活を見据えて語っています。私達の場合は、更にすばらしい救いを頂いているわけですが、基本的な事柄は同じです。主イエスは単に取り去るのではなくて、自分で担っていて下さいます。
 第三に、そのような私達はどうあることが求められているでしょうか。残念ながら主イエスにいやされた多くの人々が、まるでそんなことはなかったかのように振る舞いました(主イエスの十字架の時には、「十字架につけろ」と叫ぶ側になりました)。しかしペトロのしゅうとめは、15節。もてなします。奉仕します。仕えます。私達もそうありたいものです。