これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年6月9日「イエスの洗礼」(マタイによる福音書3章13~17節)

 今日は、マタイによる福音書の講解説教、三回目です。前回申し上げました通り、今日はペンテコステ礼拝ですので、この箇所にしました。主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになられる。すると、神の霊、聖霊が降る。旧約聖書の時代から、神の霊、聖霊が降ることは、特別な神からのメッセージ・召しでした(例えばダビデ参照)。主イエスが洗礼を受けたときにも、まだ公の生涯は4章12節のヨハネの逮捕を待つことになりますが、神の声が聞こえます。最初からみていきましょう。13節。主イエスは自分の意志で洗礼を受けようとします。私たちの洗礼の原型です。勿論主イエスは、罪なき神の小羊ですから、本当は洗礼を受ける必要はありません(罪の悔い改めとしては)。だからヨハネも言います。14節。しかし、15節。「正しいこと」というのは、別の訳し方をしますと、「義」です。マタイ福音書では、「まず神の国と神の義を求めなさい」(6章33節)とありますように、この「義」が、とても大切な鍵になる言葉・概念です。主イエスは、初めから終わり(十字架、本当の終わりではない)まで、神の義をまっとうなさいました。そしてこの出来事の結末は、16.17節。ここで起きた出来事は、私たちの救いの最初の一歩とも言えるでしょう。私たちと天との間には、私たちの罪によって、決定的な隔絶があります。しかし、その天が開かれました。主イエスは、神によって「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されます。こうして、私たちと神との間を繋いでくださっています。私たち自身はどうあがいても、神の「心に適う者」ではありえません。ただ主イエスがとりなしてくださるがゆえに、私たちにも聖霊が降り、神の「心に適う者」としての歩みがなされるように、今日ペンテコステに祈りましょう。