これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年2月3日「いついかなる場合にも」(フィリピの信徒への手紙4章10~13節)

 20節までに、(新共同訳聖書では)「贈り物への感謝」という表題を付けています。今回はこの箇所を4回にわたって、少しずつ聖書箇所をずらしながら、みていきます。この箇所全体の特徴として、多くの方々が指摘するのは、感謝なき感謝ということです。行間から、感謝が伝わってはくるものの、はっきりと「ありがとうございます」とか「あなたがたに感謝しています」という類の言明がありません。一つの解釈としては、この手紙ではエパフロディトを送り返すことが書かれているので、この手紙よりも前(エパフロディトが来たばかりの頃)に既に直接的な感謝の手紙を書いた、というものです。今回は、エパフロディトの派遣(そして可能ならばテモテの派遣)が手紙の中心なのだけれども、やはり、フィリピの教会の人々が自分・パウロにしてくれたことに手紙の最後で触れておくべきだとパウロは感じます。しかもそれが信仰的・神学的・教会的にどういう意義があるのかを今一度伝えておくべきだと思ったのでありましょう。10節。パウロは以前にもフィリピの教会の人々からの援助を受けていました。しかし迫害の困難な時にあって、それが途絶えていたようです。パウロは、フィリピの教会の人々が援助を再開してくれたことを大いに喜びます。しかし、中断していた間のことを責めないように、心配りをしています。思いはあっだが、機会がなかったのだと。私たちの教会への(それは神へのということでこの後の箇所でパウロのそういう理解も出てまいります)献金や奉仕にもそういう面があります。「今は」無理だとしても、そういう願い・思いを持ち続けるならば、神は必ず機会を与えてくださいます。更にパウロは、援助を催促しているのだと誤解されないように筆を進めます。11節前半。そしてその理由も書きます。まとめて、11節後半~13節。いついかなる場合にも対処する秘訣です。これはストア派の哲学に似ていますが、根本的に異なります。パウロを強めてくださる方、主なる神によって、この平和の神が共にいてくださることによって可能になったのであって、パウロの人間的な努力や研鑽によるのではないからです。わたしたちもまっすぐに信仰に生きることでこの秘訣を身に付けていきましょう。