これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年3月31日「十字架につけろ」(マルコによる福音書15章6~20節)

 主イエスは前回、総督ピラトに引き渡されました。尋問を受けても、2節の言葉以外何も語らないので、ピラトは不思議に思います。今日の箇所は恩赦の話です。6節。ピラトはかなり横暴な総督で、赴任の時から問題を起します。しかしこの恩赦というのは、民衆の不満をそらすために実際に行われていたようです。主イエスは何も悪事を働いていないと分かっている(10節)ピラトは、この恩赦を利用して主イエスを釈放しようとします。7~9節。9節には、どうにもひねくれたピラトの性格がよく出ているといえます。それにしても、ピラトも勿論、主イエスの人気、エルサレム入城の時の様子を聞いていたでしょうから、群衆は主イエスの釈放を求めるはずだと思っていたことでしょう。しかし現実は、11節。群衆は扇動されていました。そこでピラトは更に問います。12節。煽動された群衆の言動がなんとも不思議です。13~15節。「十字架につけろ」と叫び立てる群衆と、エルサレム入城の時の群衆。あまりにも違います。そこで、違う人々だったのだという解釈もできます。私は、同じ群衆だと読んでよいと思います。入城の時に、大きな期待を込めて迎え入れたからこそ、今、なすすべもなく(とみえる)逮捕され拘束されている主イエスに失望しました。ここで、反ユダヤ主義的な読み方は(アウシュビッツの後なのですからなおさら)控えるべきでしょう。最終的に十字架を決めたのは(使徒信条でいつも告白しておりますように)総督ピラトです。そして16~20節。兵士たちの侮辱です。旧約聖書に預言されている通りに、主イエスは侮辱されて十字架に死にます。この出来事の全てが、自分の罪を赦すためであったことに思いを馳せましょう。