これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年3月24日「黙っているとき」(マルコによる福音書15章1~5節)

  前回はぺトロの否認の記事で、ぺトロは主イエスが仰る通りに三回も知らないと言い、最後には泣き崩れたのでした。その前は(同じ時になされた)主イエスに対するでたらめな裁判でした。どちらも恐らくは夜中のことですから、夜が明けます。1節。当時、ユダヤはローマ帝国の植民地であって、ローマ帝国は比較的植民地の自治・自由を認める方針ではありましたが(あまりにも広くてそうせざるをえない面もあった)、ユダヤ当局は死刑にする権限はありませんでした。だから、主イエスを殺そうとするならば、ローマの官憲に引き渡して死刑にしてもらうしかありません。ローマの総督ピラトに引き渡します。ピラトの尋問の場面はとても短く描かれています。2節。これがマルコによる福音書で主イエスが十字架に架けられる前、最後に語る言葉です(次は十字架の上で叫ぶ、34節)。総督ピラトにとって大事なことは、この主イエスという人物が、ローマ帝国に対する反逆罪に当たるのかどうかだけです。ユダヤ教内部での宗教的なことはどうでもよい。だから、「ユダヤ人の王」なのか、と、問います。主イエスの答えは絶妙です。政治的に言えば、明らかに違う。主イエスは最初から最後まで、政治的な反逆を企てることはありませんでした。ですが、神の子、キリスト(メシア)という意味では、まさに、「ユダヤ人の王」です。しかしもはや、主イエスは丁寧にそのことを説き明かすのではなくて、まっすぐに十字架への道を、黙って、歩まれます。何も語らない主イエスのことを、ユダヤ当局の者たちが様々に訴えます。3節。だからピラトは更に尋問します。4節。しかし主イエスの言葉は3節が最後で、黙っておられます。最後、5節。「不思議に思った」は「驚いた」です。無実の罪で訴えられれば普通は、言葉を重ねて無実を主張します。しかし主イエスは、今は十字架を前に黙っているときだと分かっておられます。全てのことには時があり(コヘレド)、今は黙って十字架に赴かれます(イザヤ書53章7節)。