これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年10月10日「自殺とは何か」(マタイによる福音書27章1~10節)

 今日からまた、マタイの講解説教に戻ります。前回は、ペトロが三度主イエスを知らないといいました。主イエスの予告した通りです。そして中庭の外に出て激しく泣きました。それに対して、今日の箇所では、ユダが首をつって死にます。文脈上大切なのは、ユダよりもむしろ、主イエスが総督に引き渡されることです。また、ユダヤの宗教的指導者たちの振る舞いです。1・2節で主イエスがピラトに引き渡されます。そして、ユダの自殺の後で、彼らの振る舞いが描かれます。まず先にそれをみてから、自殺の話をします。6~10節です。この箇所のポイントは、最初の「血の代金」です。彼らは、「神殿の収入にするわけにはいかない」と神の定めを守っているようでありながら、主イエスの血の代金として自分たちがユダにお金を払っていることを認めてしまっています。彼らの罪がここにはっきりと描き出されています。
 次に、ユダの自殺をみます。3~5節です。今日は三つのことだけをみます。まず第一に、そもそも自殺とは何か、です。[高校時代と大学時代のエピソード]。自殺は自分という人間を殺すことですから、やはり、殺人の罪でしょう。しかし心の病のことなどを考慮しますと、時には自殺は病死だともいえます。このときのユダの精神状態を私達が知らない以上、判断はできません。
 次に、ユダの救いについて。主イエスが「生まれなかった方が、その者のためによかった」(26章24節)と言っておられます。しかしそれは永遠の命が決してユダにはないのだという否定ではないでしょう。確かに、「知らない」と言ってしまったペトロも罪を犯したのですが、彼は悔い改めて主に立ち返りました。しかしユダは、「自分で何とかしなければ」と考えて、自殺しました。しかし主イエスは実際に死にました。主に立ち返る可能性が永遠にないとは言えません。十字架の恵みは、ユダの罪よりももっと大きい(カール・バルト)のです。
 最後に、この記事をマタイ福音書記者がここにおいたのは、(ぺトロとの対比のためもありますが)、ユダの告白、「罪のない人の血を売り渡し」(4節)を通して、十字架に殺される主イエスの無実・無罪を宣言するためでしょう。
 私達はどんな罪を犯しても、ただまっすぐに(自分の何かに頼るのではなくて)主に立ち返り、主にゆだねましょう。