これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年9月26日「大祭司の中庭で」(マタイによる福音書26章69~75節)

 前回は、主イエスの裁判で実は何が起きていたのか、その意味をみました。ちょうどその同じときに、大祭司の中庭では何が起きていたのか、今日の聖書箇所からみます。主イエスが仰った(34節)通り、ぺトロは三度主イエスのことを知らないと言います。マタイ福音書では、それが、少しずつ強い否定になっていきます。
 一つ目、69、70節です。ぺトロはたとえ主イエスと共に死ななければならなくなったとしても、知らないとはいわないと言いました。しかし隙をつくようにして尋ねられると、分からないと言ってしまいます。次は二度目です。71、72節です。ぺトロは、そこにそのままいると危ないと感じたのでしょうか、門の方へ行きます。ここでの否定は、「誓って」ですから、更に強い否定です。最後は、しばらくたってからのことです。73節、74節前半です。この三番目の否定では、「呪いの言葉さえ口にしながら」です。単なる否定、誓いながら、そして最後には呪いの言葉さえ口にしながら、段階が上がっていきます。人間の罪や過ちには、そういう傾向、性質があります。ぺトロはこのようにして、主イエスを知らないと否定してしまいます。
 そして最後、74節後半、75節です。ぺトロは、主イエスの言葉を思い出して、激しく泣きます。ここが自殺してしまったユダとは決定的な違いです。確かに裏切りと単なる否認では、その行った事柄も全く異なります。しかしそれ以上に重要な違いは、自分で何とかしなければならないと思い込むのか、それとも、自分の弱さ、罪、問題を受け止めて泣き・嘆き、そこから再出発するかの違いです。私達は誰しも、罪を犯します。間違いをします。しかし大切なのは、現代の為政者たちのように、隠蔽してなかったことにするのではなくて、自分の過ちを認めて、ただまっすぐに主イエスに頼ってやり直すことです。