これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年10月3日「主から受けたものを」(コリントの信徒への手紙一11章23~26節)

 今日は世界聖餐日です。そこでマタイの講解説教を休んで、コリントから聴きます。聖書に親しみ祈る会では、既にこの箇所を終り、いわゆる「愛の讃歌」も読んで、「預言と異言」に入る所です。
 なぜこの聖書箇所かと申しますと、この箇所が、聖餐について書かれた一番古い箇所だからです。見比べて頂ければすぐ分かりますが、マタイとマルコがよく似ていて、ルカとコリントが似ています。その比較をすることは今日は致しません。関心のあられる方は各自読み比べてください。
 今日の箇所は、聖餐式のときに読まれることが多いので、よく知っておられる方が多いのではないでしょうか。今日は三つのことだけに注目します。まず、23節前半です。どういう意味でしょうか。聖餐は、勝手に作り出したり、改変したりするものではありません。自分も受けたものを、パウロは、コリントの教会にも伝えます。私達もそうです。その内容は、23節後半から25節です。細かい変更はあるでしょう。衛生上の観点から回し飲みをやめたことや、この聖書箇所のパウロの問題意識のままに、聖餐と愛餐を分けたことなどです。でも根源的に聖餐の意味は変わりません。「主から受けたもの」を伝えていきます。私達の判断や意志で変更するようなのものではありません。
 第二に、パウロの言う「受けた」とは何でしょう。霊において現れた主イエスパウロの回心の体験参照)から直接受けたのだという読み方もあります。しかしそのような特別な霊的体験のことではなくて、教会の通常の伝承において受けたことを「主から受けた」と表現しているのでしょう。
 最後に、26節です。「主の死を告げ知らせる」ことこそ、聖餐の最も大切な意義です。この言い方には最初は違和感がありました。しかし十字架と復活を深く心にとめるほど、このパウロの言明はよく分かります。