これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年9月19日「でたらめな裁判」(マタイによる福音書26章57~68節)

 前回主イエスが逮捕されて、弟子たちは逃げ出しました。主イエスの裁判は、本来ありえない大祭司の屋敷で行われます。57・58節です。この頃、そもそも大祭司が誰であったか、議論のある所ですが、大祭司を輩出する一族という意味で表現されているのでしょう。他にも、夜中に裁判が行われていること、一日で結審していること、証拠のいい加減さ、この裁判がでたらめであることは明らかです。そしてまた、ぺトロが遠く離れてついていったことが、次回のぺトロの否認に繋がっています。
 今日は、裁判がいかにでたらめであるかを論じるのではなくて(その必要もないでしょう)、ここで・このでたらめな裁判で何が起こっているかに焦点を当ててみてみましょう。ずっと黙り続けている主イエスに対して、大祭司が問い、主イエスがお答えになる箇所をみましょう。63・64節です。どうしても主イエスを殺したい権力者たちは、いいがかりをつけますが、うまくいきません。そこで最後には、大祭司が主イエスに直接問います。主イエスの答え、「それはあなたが言ったことです」は、間接的な肯定なのだそうです。更に主イエスが、「天の雲に乗って来るのを見る」と仰っているので、自分がメシアだと主張しているのは、確かでしょう。
 そこで大祭司は断罪します。65~68節をまとめてみてみましょう。メシアを主張することが、直ちに神を冒涜することにはなりません。ただ、彼ら、宗教的指導者たちの立場からすれば、自分たちの許しもなく、メシアを主張することは冒涜だということでしょう。主イエスがでたらめな裁判で裁かれたとき、そこではまるで私達人間の罪が、神の子に勝利するかのようでありました。しかしここで本当に起こっていることは、神の計画、十字架と復活の計画が、私達人間の罪にもかかわらず(罪さえも用いて)進んでいくことでした。現代の社会においても、神の計画こそが実現していきます。