これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年12月26日「疑う者も」(マタイによる福音書28章15~20節)

 今日は年末礼拝です。マタイによる福音書も最後の箇所まできました。尤もこの箇所は今日と1月9日の二回みますので、最終回は9日です。今日は特に、17節最後の「疑う者もいた」ということに焦点を当てます。16・17節です。
  まず場所です。ルカは、彼の神学のゆえに、顕現の場所としてイスラエルの都エルサレムを中心に描きます。しかしマタイは、マルコに従って、ガリラヤです。50日にわたって主イエスは弟子たちに現れましたから、エルサレムガリラヤ、その両方で顕現なさったのでしょう。ガリラヤの意味は明白です。主イエスが主に活動なさった地域です。「山上の説教」も様々な奇跡もこのガリラヤで行われました。福音書の最後に、福音書が描いてきた事柄を思い起こさせます。「山」については、サタンの誘惑の最後や(今申し上げた)山上の説教、また山上の変貌などがありますが、この山がどこであるかを特定することはできません。ただ主イエスが一人で山に登って祈られたことは、ここでも思い起こしてよいでしょう。
 復活なさり、「一切の権能を授かっ」た(18節)主イエスの前に、11人の弟子たち(裏切って自殺したユダがいないので)は、ひれ伏します。しかしそのわずか11人の中にも、疑う者がいました。そのことをマタイ福音書記者は、描きます。教会には、その始まり(この大宣教命令・昇天の箇所か聖霊降臨か難しい所ですが)から、疑うものがいる集まりでした。毒麦の例え(13章24節~)を思い起こしてください。疑う者だから、純粋に主イエスの弟子ではないから、と、排除してはなりません。全て父なる神にゆだねて、その点では私達は判断しなくてよいのです。毒麦は勝手に消え去るか、最後の審判のときに神が裁いてくださいます。この箇所で、主イエスでさえも、疑う者を排除することなく、最後の言葉をお語りになります。
  私達も、疑う者さえも包み込んでいくような、寛容な教会形成をしていきましょう。