これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年1月2日「決して追い出さない」(ヨハネによる福音書6章34~40節)

 今日は新年礼拝です。例年通り、日々の聖句(ローズンゲン)の年の聖句を聴きましょう。最初に「序」を紹介します。…。
 今年の年の聖句は、私達は、神によって、喜んで迎えられる、ことを示しています。しかしそれは同時に、私達が受け入れられないような他の人のことも追い返されないということです。そこには一つの試練があります。今日は、ヨハネ福音書の文脈から、主イエスがどういう意味でこのことを語ったのかみていきましょう。
 大きな文脈でいいますと、5~7章をいかに読むかという問題があります。スローヤンなどは、6章、5章、7章の順に読むべきだと提案しています。しかし今日はそういったことには触れないで(将来ヨハネ福音書の講解説教の時に丁寧に読みましょう)おきましょう。
 まず、34・35節です。人々は、主イエスに「いつもパンを」と求めます。それに対して、主イエスは、「私が命のパンである」とお答えになります。その箇所には、有名な井戸端の女と同じ誤解、主イエスの言葉を即物的に捉える誤解があります。主イエスが語っておられるのは、実際の食べられるパンのことではなくて、永遠の命に至るパンです。残りの箇所はまとめて見てみましょう。36~40節です。まず信じない人々への叱責があります(36節)。そして、今年の年の聖句を含む37節です。主イエスのところに来る人々は、神が主イエスにお与えになった人々です。ぞしてその人々を主イエスは、決して追い出しません。主イエスがこの地上にいらしたのは、神の意志・御心を行うためです(ヨハネによる福音書では繰り返し強調されるポイントです)。その神の御心とは、上述のように、神によって主イエスに与えられた人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることです。ここに永遠の命があります。
 そういう文脈で、「私のもとに来る人を決して追い出さない」と仰る。その前提として、その人々は、神が主イエスに与えられた人々です。しかし私達は、誰がそうなのか知る方法はありません。「主イエスのもとに来た」という事実から推測するのみです。私達ができることは、主イエスが「追い出さない」のに私達が追い出してしまうという罪を犯さないことです。はじまったばかりの今年、そのような過ちを犯さないで、神の言葉を伝えることに・生きることに集中しましょう。