これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年4月21日「復活の恐れ」(マルコによる福音書16章1~8節)

 

 前回の箇所で十字架上の死、そして埋葬がありました。今日の箇所はマルコ福音書の(本来の)最後の箇所です。しかしその終わり方はあまりにも唐突です。8節。主の復活の顕現もありません。ギリシャ語では、「ガル」で終わっているのも不自然です。だからかつてよくなされた推測は、最後の部分がなくなってしまったというものです。実際に昔の本は巻物ですから、最後の部分がちぎれてなくなるということはありました。恐らく本来の福音書は、主イエスの顕現までを描いていたのだが、なくなってしまった。だから、9節から先が書き足されたのだというのです。確かにそういう読み方もできますが、最近は、この福音書は実際に最初からこのように終わっていたという学説の方が有力になっています。最初からみていきましょう。1~3節。安息日には買い物もできませんから、日が暮れて安息日が終わってすぐに買いにいったのでしょう。日曜日に私たちが礼拝をしているのは、安息日だからではなくて、主イエスの復活の日だからです(週の初めの日)。お墓の入り口の石は、何人かの女たちでは、動かせないものだったのでしょう。先に(行く前に)なぜ気が付かなかったのか、不自然だ、という方もいますが、私たち人間の行動というのは案外こういうものではないでしょうか。4節。神の受動態です。5節。女たちの驚きは、当然でしょう。主イエスのご遺体があるはずなのに、若者が座っていたのですから。6・7節。あの方はここにはおられない。先にガリラヤへ行かれた。主イエスは、私たちの誰よりも先に、いつだって、私たちのガリラヤへ行って下さる方です。この福音書は不自然な終わり方をすることで、私たちに問いかけています。あなたがたは、復活の恐れを超えて、先にガリラヤへ行かれた主イエスの後についていくのか、それとも、逃げ去ったままなのか、と。