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日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年10月15日「受け入れる生き方」マルコによる福音書9章30~37節

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 前回は山上の変貌の後、山を降りてきた時の出来事でした。主イエスの主な活動地域であるガリラヤ地方に行きますが、もはや十字架に掛かるエルサレムが視野に入っているので、「通って行」くだけです。30~32節。新共同訳聖書では…と表題を付けていますし、福音書で三回、主イエスが受難予告をしておられるという言い方も一般になされています。しかし、31節を丁寧に読むとすぐ分かりますように、「三回だけ」予告なさったのではなくて、三回取り上げられているだけで、繰り返し語っておられたことが分かります。弟子たちが、受難予告の意味が分からないけれども、怖くて尋ねられなかったのは、彼らの期待に明らかに反する答えを主イエスがなさりそうだったからでしょう。
 彼らはカファルナウムに着きます。家は、恐らくペトロの家です。33節。尋ねなくても主イエスには分かっておられたでしょう。しかし敢えて尋ねます。34節。黙っていたのは、「だれが一番偉いか」という議論が、主イエスの前に恥ずかしい議論だったので、答えられなかったのでしょう。そこで主イエスは教えます。35~37節。教会の言葉として、「下への上昇」という言葉があります。主イエスが、神の子でありながら、十字架という残酷な恥ずかしい死刑に殺される所まで降って行かれたように、私達もまた、常に「下へ」という方向性が大切です。そしてその一つの現れ方が「受け入れる」ことです。少子化の社会の中で、「子ども」のイメージはかなり変わりましたが、この当時は、邪魔な者、取るに足らない者、弱く小さい者でした。社会の中で、最も小さくされている者を受け入れる者こそ、主イエスを受け入れ、神を受け入れることになります。あなたは、子ども=最も小さくされた者を受け入れる生き方をしていますか、主イエスに倣って。