これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年10月8日「祈りによらなければ」マルコによる福音書9章14~29節

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 前回は山上の変貌で、福音書の頂点でした。今日は山から降りてきた直後の出来事です。出来事自体は複雑ではありますが、読めば分かる事柄です。ただ二点だけ、少し分かりにくいことについて説明をします。それから、三つのポイントに絞ってお話ししましょう。まず、「驚き」の意味(15節)です。次に群衆が走り寄って来る(25節)です。
 三つのポイントの一つ目は、主イエスの嘆きです。19節。二つ目は、父親の信仰です。三つ目、最後は、「祈りによらなければ」です。一つ目の主イエスの嘆きは、主イエスが父なる神に祈りつつ、神との交わりの中で活動していたのに対して、主イエスの来られた時代がいかに「信仰のない時代」であるかを主イエスは嘆いておられます。山上の変貌で栄光が明らかに示された後だから尚更、主イエスはこの世界の現実、信仰のない時代の現実を嘆かれました。三つの徳の一つに祈りが数えられた(残りの二つは断食と施し)時代でさえ、そうでした。二つ目は、父親の信仰。22節後半~24節。「信じます。信仰のない…」という父親の言葉には、信仰と不信仰が入り交じっています。私達はどうでしょう。「からし種一粒ほどの信仰があれば…」という主イエスの教えを思いますと、私達もまた、この父親と同じように叫ぶしかありません(父の話)。「自分の信仰」を考えれば、「信仰のないわたし」と告白するしかない。けれども、そのわたしが、神に心を開いて、「信じます、憐れんでお助けください」と叫ぶ所に、神の奇跡、わたしたちの小さな取るに足らない信仰を全て包み込むようにして、神の救いがあります。三つ目は、「祈りによらなければ」。弟子たちが、祈らないで治そうとしたのではないでしょう。しかし弟子たちの祈りは、この父親の叫びのような、自分の信仰のなさを知り、それでもなお神が働いて下さるようにという、切実なものではなかったのでしょう。祈りは、形式的なものに堕しやすい。神に自分の心の全てをさらけ出すような祈りを祈りましょう。