これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年4月28日「信じなかった」(マルコによる福音書16章9~13節)

 前回の箇所までで本来のマルコ福音書は、終わっています。しかし聖書が編まれた時点で既に、9節以下は付加されていました。他の三つの福音書では、復活の告知と顕現の両方がありますから、告知しかないマルコ福音書に付加するのは、顕現です。しかも勝手に付け加えたのではなくて、他の福音書(あるいは資料)を引用したり要約したりしています。
 特徴的なのは、「信じなかった」ことです。11節、13節。そのことの解決は、次回(来週)の聖書箇所を待たなければなりません。今日は、この「信じなかった」ことの意味を掘り下げてみましょう。一つ目のマグダラのマリアに現れた記事をマタイとヨハネが描いているのをみますと、聞いた者たちが信じなかったという記事にはなっていません。また二つ目ルカ福音書のエマオへの途上の話でも、そうです。マルコは、最初に聞いた人々が信じない、そして主イエスは更に顕現されたという描き方をしています。
 ここに描かれているのは、私たち人間の頑なさなのではないでしょうか。イスラエルを描く旧約聖書自体が、イスラエルの頑なさを描いています。新約聖書(特に福音書)でも、弟子たちの頑なさ(物分かりの悪さ)が描かれています。そして私たちも決してこの「信じなかった」頑なさと無縁ではありません。「復活」(それ自体は前回も申し上げましたように神固有の事柄であって、私たち人間の関与はありません)が「信じられなかった」のは、現代が科学の時代だから現代に限ったことなのではなくて、主イエスの時代からそうでした。主イエスが十字架の死以前に何回も語っておられたのに、人々(男の弟子たちも女の弟子たちも)理解しませんでした。私たちもそうです。「信じなかった」のが、私たち人間の自然の性・姿です。一人ひとりに神の特別な力が働いて、希望の源である復活を「信じる」ことができます。