これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年11月28日「墓を見張る」(マタイによる福音書27章62~66節)

 前回は主イエスの葬りの場面でした。前回と今日の箇所は、十字架という劇的な場面と復活という決定的な場面の間の小休止のような箇所です。正直、前回以上にこの箇所からいかにして御言葉を取り次ぐことができるのか、困りました(自分で聖書箇所を決めておきながらそんなことを申し上げるのもどうかと思いますが)。
 この聖書箇所は、マタイ独自記事です。そして同じくマタイ独自記事である28章11節以下に繋がるものです。意図ははっきりしています。弟子たちが遺体を盗んで復活したのだという、宗教的指導者たちの嘘が、彼らの企み・方策によって、暴かれます。
 まず、62・63節です。ここで不思議なのは、主イエスの弟子たちでさえ、主イエスが逮捕されて殺される過程で、主イエスの復活予告をすっかり忘れているのに対して、彼らがしっかりとそのことを覚えていることです。宗教的指導者たちは、一番肝心の所では間違えました。つまり、主イエスが神の子であることは受け入れませんでした。しかし主イエスの予告を弟子たち以上にきちんと把握しました。それは、様々な理由が考えられますが、一つには、「恐れ」でありましょう。彼らの目論見通りに、主イエスを殺しましたけれども、もしかするとそれで終わりではないかもしれないという彼らの恐れがそこにはあります。
 そこで彼らはピラトに願います。64節です。結論は、主イエスのお墓に見張りを立てます。65・66節です。この物語自体は、28章11節以降のための準備に過ぎません。しかしここには、私達が神に信頼しきらないときに、どれほど恐れや不安に囚われてしまうかを示しています。私達はひたすら主イエスに信頼して、それゆえに、安心して日々を過ごしましょう。