これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年11月21日「主イエスの葬り」(マタイによる福音書27章57~61節)

 前回は主イエスの死の場面でした。今日はその葬りの場面です。57節です。アリマタヤのヨセフが主イエスの弟子であったのかどうかはよく分かりません。まず、弟子とは何かということがまだはっきりしていない時代ですから、他の福音書にあるような、「神の国を待ち望んでいた」(マルコ15章43節)ことを「弟子であった」と表現したのかもしれません。更に、本当に主イエスが死んでしまったのかどうかというピラトの逡巡(マルコ)も、マタイには関心がありません。ヨセフの身分については、マルコの「身分の高い議員」という言葉もマタイは省きます。ピラトに遺体を引き取りたいという時の、ヨセフの勇気も省かれて、淡々と描かれます。58~60節です。
 大切なのは、既に何度も使い回された古い墓ではなくて、新しい墓だということです。当時のお墓は、遺体を横たえておき、骨になると、一つに集めて次の方に使います。しかし主イエスの場合には、決して裕福な存在ではなかったにも関わらず、アリマタヤのヨセフの働きによって、高貴な、神の子に相応しい葬りがなされました。これは、栄光の復活へ向けての備えだと言えるでしょう。
 女たちが「墓の方を向いて座っていた」ことは、文脈上、どう繋がっているのか、よく分かりません。私達は、まっすぐにこの光景を思い浮かべれば十分でしょう。今日の箇所は、十字架という劇的な場面と復活という決定的な場面の間の小休止のような箇所です。そして私達は、このとき、既にこの世界での命を失っている主イエスが、この世界だけではなくて、陰府にまで神の子の力を及ばしめたことに思いを馳せるのです。新しい一週間、教会の暦の上で最後の一週間、静かに主イエスに思いを馳せましょう。