これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年11月14日「本当にこの人は」(マタイによる福音書27章45~56節)

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 前回は十字架の上の主イエスを人々がどれほど深く激しく侮辱したかをみました。今日の箇所で、主イエスは十字架の上で息を引き取ります。まずその場面をみましょう。50~52節です。次の53節は主イエスの復活の後のことです。54節には、主イエスが息を引き取られた時の、人々の様子が描かれています。更に、55・56節は、遠くから見守っていた(逃げ出した弟子たちとは対照的に)女たちが描かれています。この箇所で大切なことを三つだけみましょう。
 まず第一に、神殿の幕が裂けたことです。これは、聖なるところと俗なるところの境目がなくなったことを意味しています。そしてこれこそ、神の子、イエス・キリストがこの世界に来られたことの意義の一つです。私達人間は、すぐに聖と俗を分けようとします。そうすることで、聖なるところでだけ、聖なること・神のことを思い、俗なるところでは自分勝手でよいと思うのです。この我が儘な、罪の入り込みやすい物の見方を主イエスは打ち砕きました。
 第二に、十字架と復活は、分かちがたく一つであることをマタイ福音書記者は描き出そうとしています。そして、事実関係としてはどうであれ、52・53節で、十字架の死は、分かちがたく復活に結び付いていることを示します。今日は、召天者記念礼拝で、信仰の先達を覚えつつ礼拝をささげています。彼らの希望、そして彼らに関する私達の希望はどこにあるのでしょうか。それは、復活です。
 第三に・最後に、百人隊長や見張りの人々の言葉、「本当に、この人は神の子だった」に注目しましょう。彼らは、主イエスの弟子でも何でもありません。しかし主イエスが息を引き取った時の出来事によって、真実の告白へと導かれるのです。私達もこの告白へと導かれる命を生きましょう。