これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年11月7日「十字架の上で」(マタイによる福音書27章32~44節)

 前回、総督の兵士たちが、主イエスを侮辱しました。そして主イエスを十字架につけるために引いて行きます。最初に登場するのは、シモンという名のキレネ人です。32節です。この人物はマルコでは二人の男性の父親だと紹介されているので、この後、主イエスの救いを信じてキリスト者になったのではないかと推測されています。この箇所のポイントは、「無理に」です。私達は、キリスト者として生きる以上、「自分の十字架を背負って」生きることを大切にします。しかしそれは、自分の方が我が儘に「この十字架がいい」と選ぶのではありません。「無理に」背負わされます。このことが分かっていないと、我が儘に信仰から離れていくことになりまかねません。
 他にも、主イエスがぶどう酒を飲まなかったこと(34節)や、主イエスの服を分け合ったこと(35節)、「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書き(37節)など、様々なポイントがあります。しかし今日は、人々の侮蔑ということに焦点を絞ります。まず通りかかった人々です。39・40節です。更に、祭司長たち(と律法学者、長老たち)です。41~43節です。最後に、主イエスと共に十字架につけられた強盗たちです。38、44節です。
 彼らの侮辱の言葉から、三つのポイントだけをみましょう。まず第一に、彼らにとって「神の子」は、自分を救うことができるはずだという前提です。しかし、「神の子なら、…してみよ」という言葉で私達が思い起こすのは、荒れ野の40日のサタンの試みの言葉ではないでしょうか。サタンの誘惑は、最初の荒れ野の試みだけではなくて、主イエスの生涯の最後の十字架においても、続いています。そしてそれをサタンの代わりに担うのは、当時の宗教権力者たちばかりでなく、通りすがりの人々も、共に十字架につけられた人々でさえ、担います。人々の徹底的な無理解の中で、サタンの誘惑は続きます。
 第二に、私達の背負う十字架が私達の意志に関わりなく背負わされる以前に、主イエスご自身が神の意志を全うするために、主イエスの意志とは異なる(ゲツセマネの祈り参照)仕方で、私達の救いを備えてくださいます。
 そして第三に、最後に、彼らは侮蔑していますが、その彼らのためにこそ、主イエスは十字架に死んでくださいました。