これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年10月13日「こう祈りなさい」(マタイによる福音書6章9~10節)

主イエスは祈りについて教える後半で、主の祈りを教えます。今日はその前半の部分、神・天に関する祈りです(次回後半、私達人間・地上のこと)。主イエスは、「こう祈りなさい」と仰って、主の祈りを語ります。9節前半。まず神への呼びかけの言葉です。元のギリシア後の語順では、父よ、私達の、天におられる、です。神への祈りでありながら、「神」という言葉は出てきません。私達は、天の神を「父」と呼んでよいのです(ロマ8・15、ガラテヤ4・6)。あまりにも日常化してしまって、この呼びかけに驚きを感じなくなってしまっているかもしれません。しかしこれはやはり驚くべきことです。また、「私の」ではなくて、「私達の」です。呼びかけから既に、私達は主の祈りを連帯性において祈ります。そして神がおられる場所は、天です。
 9節後半。これは、福音の要約と言われる主の祈りの中でも、日本語では最も誤解されやすい祈りです。元の言葉では、「神の名が聖なるものとされますように」です。もちろん日本語訳のように、「崇められる」という意味もありますが、それ以上に、私達人間の罪によって、汚れてしまっている神の名を、神様ご自身が聖なるものとして聖別していてください、神の名が聖なるものであると私達が分かるようにして下さいと言うことです。神の聖性を見失いがちな私達がきちんとわきまえるように聖霊によって助けて下さい。
 10節前半。これには、二重の意味があります。現在と終末と。主イエスは洗礼者ヨハネと同様、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4章17節)と福音を語り始められました。私達は現在既に私達に到来している神の支配を喜んで生きると共に、完全な形で神の支配の来る終末を待ち望みます。
 10節後半。この祈りの前提となっているのは、天においては、神の意志の通りになっているということ、またこの地上では(私達人間の罪のゆえに)神の意志に反することが起こっていることです。私達は、天における神の意志をどこでどのように知るのでしょうか。ルカ15章に示されているように、私達の救いは天における神の大きな喜びです。「御心」が具体的に分からないときでも、神の決定的な「御心」が既に主イエスの十字架と復活によって示されています。