これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年11月3日「あなたは誰に仕えるのか」(マタイによる福音書6章19~24節)

 施し、祈り、断食についての言葉が終わり、次の単元です。新共同訳聖書の表題が三つありますように、三つそれぞれをみていくこともできますが、今回はマタイ福音書記者がこのように並べた意図(ルカと比べると、マタイが一カ所に集めたことがよく分かります)に沿って、この三つを結び付けながらみていきたいと思います。全体のテーマは、神と富とに仕えることはできないのだから、あなたは誰に仕えるのかを鮮明に自覚・意識しなさいということです。これは、人々に見せるためではなくて、ただ隠れたことをみておられる神に焦点を合わせよという、前回までの箇所と繋がっています。
 19~21節。地上に富を積むことはむなしい。誰でも分かっているようでありながら、つい見失ってしまう事実でしょう。ではどうしたらよいのか。22・23節。この箇所は少しだけ解説が必要です。かつて古代においては、目が光を受け止めるのではなくて、目から光が発するという考え方がありました。ですから、目が澄んでいる(単純である、まっすぐであるということ)ことが、明るくあるために大切だということです。これは私達の眼差しを、主イエスのあの眼差しに重ねていくということではないでしょうか。主イエスはこの地上の悲惨も罪も不条理も全てご覧になられました。しかしそれは、常に父なる神に祈りつつ、父なる神へと向ける眼差しにおいて見ておられました。この主イエスの眼差し、濁りのない澄んだ眼差しにおいて、私達は、建前ではなく私達の事実として、地上に富を積むことのむなしさと天に富を積むことの幸いが分かります。
 最後に、24節。天に富を積むことを志し、主イエスの澄んだ眼差しを与えられるならば、神と偶像である富(マモン)の両方に仕えることはできないことは明らかです(イスラエルの背信参照のこと)。そして富ではなくて神にまっすぐに仕えるとき(仕える相手がなくても人間が主体的に生きられるとする近代の誤った発想は論外として)、私達は所有からも自由になることができます。