これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年3月15日「収穫の主に」(マタイによる福音書9章35~38節)

 今日で9章が終ります。この箇所は8・9章の全体のまとめ、また10章への橋渡しの箇所です。最初の35節は、主イエスの活動の要所にマタイが書く言葉です(4章の最後参照)。そして主イエスが群衆を憐れまれる姿を描きます。[36節]この群衆がどんな人々であるかは、既にみてきました。主イエスに従順に従うような人々ではありません。「悪魔の頭」などと言い出さない分、ファリサイ派の人々よりはましかもしれませんが、無知と無理解の人々です。それでも主イエスは、見捨てるのではなくて、深く憐れみます。これは、「上から目線」などとは全く異なり、自分の内蔵が痛むほどに深く共感する、シンパシーをもつことです。当時の群衆は、植民地支配と頑な宗教的指導者層によって、飼い主のいない羊のようでした。更にもっと深い所で、神の民であるはずなのに、神から遠く離れてしまっていました。だから主イエスは、十二人を選び派遣するにあたってまず、仰います。[37節]収穫とは本来、終末の最後の審判を指し示しています。しかしここでは、そればかりではなく、私たちが自然にそう読みますように、伝道の成果、主イエスの福音を聞いて、神に立ち返って新しく歩みだす人々のことでしょう。「働き手が少ない」としたら、私たちはどうしたらよいのでしょう。私たち自身が働き手になることでしょうか。主イエスは弟子たちに仰います。[38節]せっかく収穫が多いのに働き手が少ないのだから、あなたがたが働き手になりなさいとは仰いません。働き手を送ってくださるように祈ることを求めておられます。
 最後に三つのことだけを確認して終りましょう。まず第一に私たちは、主イエスの眼差し、「収穫が多い」をきちんと共有しているでしょうか。この、主イエスの眼差しにおいて事実である、「収穫が多い」ことを私たち自身も共有してはじめて、収穫が多いことの喜びを生きることができます。第二に、自分の・私(たち)の伝道ではないこと。伝道の主体は三一なる神です。第三に、それゆえ私たちは、いつだってただキリストにのみ頼りますし、それで充分です。