これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年7月17日「時が満ちるに及んで」(エフェソの信徒への手紙1章1~14節)

 今日からエフェソの信徒への手紙の講解説教です。この手紙は確実にパウロが書いたと考えられている7つの手紙(ローマ、コリント一・二、ガラテヤ、フィリピ、フィレモン、テサロニケ一)に入っていません。パウロの真正の手紙かどうか分かりません。その上、宛て先も、有力な写本の幾つかに「エフェソ」が欠けています。勿論パウロが書いた可能性もあるのですが、今回はパウロに比較的近い熱心な弟子の一人が書いたものとして読んでいきます。ただしそれで読み方が大きく変わることはありません。
 今日の聖書箇所は、最初の挨拶の言葉も含めて、様々なことを読み取ることができますが、今日は三つの点だけに絞って聖書に聞きます。この箇所では、キリストを通しての神の救いの計画が描かれています。まず第一に、この神の計画は、天地創造以前からのものだ(特に4節)ということです。これは神の救いの計画が天地創造の前から存在するというだけではなくて、私達自身の存在も生も死も全て神のご計画の内に、最初からあるということにほかなりません。
 第二に、その目的は、私達がこの救いの計画によって、神を崇めほめたたえることです(12節など)。神をほめたたえるようにと、神は人間をお造りになりました。しかし私達人間は我が儘で自分勝手であり、まるで神なきがごとくに生きてしまう存在です。神の救いが分かってはじめて、私達は神の人間創造の目的の通りに、神をほめたたえることができるようになります。
 第三に(最後に)、この救いの実現、完成は、「時が満ちる」(10節など)のを待たなければならない、今はこの救いの出来事の始まりと完成の「間の時」だということです。例えば、グノーシスの方々などは、自分たちはもう完成しているという自覚をもって、既に「時は満ちた」といいます。しかしそうではなくて、私達は救いの完成の時を待ち望んで、聖霊という保証(14節)に信頼して歩みます。