これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年1月23日「私達を救い出すために」(ガラテヤの信徒への手紙1章1~5節)

 今日は、前回と同じ箇所です。前回は、1・2節に集中しました。今日は3~5節です。3節は多くの手紙でみられるふつうの祝福の言葉です。恵みと平和を宛て名人の方々のために求めます。
 ふつうの手紙と異なるのは、4・5節です。まず4節で、主イエスが何をしてくださったのかを今一度振り返ります。なぜでしょうか。私達信仰に生きる者にとっては当たり前のことが(当たり前になってしまうことも問題がありますが)、ガラテヤ地方のキリスト者には曖昧になっていたと考えられます。
 まず第一に書かれていないことに注目しましょう。それは、謝辞・感謝の言葉です。神へのそして、人々への感謝の言葉です。それがないのは、パウロがどうしてもガラテヤの人々に関しては、神に感謝できない事情があったからです(これからこの手紙でみていきます)。その代わりに、キリストが何をしてくださったのかが描かれます。それは、十字架に分かるように、ご自身を私達の罪のためにささげることでした。そしてその目的は、「この悪の世から私達を救い出」すためです。
 三つのことに注目しましょう。まず第一に、これは神の御心に従うことでした。主イエス・キリストが勝手に志したことではなくて、神が私達を救い出そうとして、そうしました。私達は神に愛されていることが分かります。
 第二に、これは、「私達の罪のため」です。罪が分からないと救いが分からないと言われますが、私は逆だと思います。救いがあってはじめて、私達は自分の罪を直視することができます。そうでないと、弱い私達は、罪自体をなかなか認められません。
 そして第三に、最後に、神に従わない、悪の世としてこの世界を捉えることが必要です。確かに神は全てをすべおさめたもうのですが、最後のときまで、神はあえて人間の罪の現実に世界をゆだねておられます。その中で、私達はこの悪の世から救い出されて神の使命に生きます。
 最後に5節です。こういう頌栄の言葉は、大きな区切りなどでなされることが多いのですが、この手紙ではあえてパウロは最初の挨拶に入れています。それは、謝辞を述べることができなかったこと、また頌栄をもってしか、この手紙を書けなかったことを示しています。