これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年1月16日「使徒とされたパウロ」(ガラテヤの信徒への手紙1章1~5節)

 今日から、ガラテヤの信徒への手紙の講解説教です。パウロの真正の手紙は、一番少なくみる方で7つあると言います。その内の一つがこの手紙です。今日は一回目ですので、緒論的なお話しをしてもよいのですが、そういうことは省きまして、本文をみていきましょう。緒論的なことは、本文をみていく中で、必要に応じてお話ししたいと思います。この手紙もまた、他のパウロの手紙同様、まず最初の挨拶からはじまります。誰から誰への手紙であるか、そして最初の祝福の言葉です。今日は最初の、誰から誰への部分をみましょう。1・2節です。ここに早くも、この手紙の特徴が現れています。
 実は最初の挨拶の箇所で、パウロが自分を使徒と呼んでいる手紙は、四つだけです。ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙一、二、それにこのガラテヤの信徒への手紙です。ローマの信徒への手紙は、直接面識のない教会への手紙、自己紹介もかねた手紙ですから、長く丁寧になるのは当然のことでしょう。そしてコリントは、この手紙と同じように、「神によって」ということが強調されています。しかしこのガラテヤよりはあっさりしています。このガラテヤだけが、「人々からでもなく、…神とによって使徒とされた」と丁寧に描いています。
 なぜパウロはガラテヤでこんなに丁寧に描いているのか、様々な議論があるのですが、今日はそれを申し上げることは致しません。ただ、この箇所から既に、パウロがこの手紙で述べようとしている、律法・割礼ではなくて福音なのだという議論がはじまっているとみることができます。パウロの敵対者たち(この特定も難しく確定できないのですが)は、異邦人キリスト者であっても、割礼を受ける必要があると主張していました。それに対してパウロは福音のみ、信仰のみで救われるのだと主張しました(私達と同じですね)。福音とは神の恵みですから、人間ではなくてただ神のみによってということです。今日の前書きから既にパウロは、使徒ということを巡って、この議論を展開しはじめています。
 私達は、福音だけでよい、神の恵みだけでよいと言われますと、私達人間の側にもすべきことがあるのではないかと疑いはじめます。しかしそれは、神の恵みのみに信頼することを妨げるだけです。さあ、私達は新しい一週間、使徒とされたパウロがそうであるように、ただ神の恵み・福音にのみ、まっすぐに信頼して歩みましょう。