これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年1月30日「他の福音などない」(ガラテヤの信徒への手紙1章6~10節)

 前回申し上げましたように、最初の挨拶の後には、普通、謝辞がきます。しかしこのガラテヤの信徒への手紙ではかなり厳しい言葉が続きます。6節です。「あきれ果てる」は、「驚く」とも訳すことのできる言葉で、当時の文学様式としては用いられていました。しかしこういう表現がパウロで出てくるのは珍しいのです。ガラテヤ地方の教会で、パウロが開拓伝道した後でやってきた巡回伝道者たち(現在のように教会づけの伝道者が普通で、巡回伝道者が珍しいのとは異なり、当時は普通でした)が、濃淡も理由も様々ですが、割礼を受けてユダヤ人になるべきだという主張をしていたようです。そういう主張をパウロはこの節で「ほかの福音」といいます。
 しかしパウロは、この表現は適切ではないと感じたのでしょう。次の7節で、否定します。惑わそうとする「ある人々」の主張の中身はまだ描かれていません。しかしパウロは、それを「もう一つ別の福音」とは捉えません。パウロは、まだ福音が教理的には確立していない初代教会にあって、ときには柔軟・寛容に、ときにはとても厳しく対します。パウロの後に雄弁なアポロがきて、多少パウロと異なることを教えてもパウロは認めます。更に、フィリピの信徒への手紙では、パウロをおとしめようとして宣教する人々でさえも、パウロはそれで福音が広がるならばと、許容しています。しかしガラテヤに後から来た巡回伝道者については、事情が違います。その決定的な違いは、福音は、神の一方的な恵みであって、私達人間の側には何も要件・必要となることはないのだということです。そこをないがしろにする主張とは、パウロはあくまで戦います。
 それは呪いの言葉さえ口にする厳しいものでした。8・9節です。本来の福音に反する事柄が主張されるならば、呪われるがよい、それがたとえ自分たち自身であれ天使であれ。とても強い口調です。
 これは一歩間違うと、破壊的カルトになりかねない危険をはらんでいます。教理がまだ確立していないのに、「この福音が絶対だ」というのは危険なことです。しかしパウロはまたこう述べます。10節です。パウロは(人間に巧みに取り入って自分の精神的な奴隷にしようとするカルトとはま逆に)、ただ神の気に入られようとするキリストの僕です。私たちも、忖度ばかりで真実の中身のない歩みではなくて、真実の福音を生きましょう。