これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年7月10日「自分の手で」(ガラテヤの信徒への手紙6章11~18節)

 今日はいよいよガラテヤの信徒への手紙、最終回です。最後パウロは、今までの口述筆記をやめて、自分の手で書きます。11節です。全て口述筆記でもよかったでしょう。しかしパウロはこの厳しい手紙の最後に、自分の手で今一度、大切なことを書きます。12・13節からみましょう。この短い手紙の中で、繰り返し語られてきたことです。割礼を受けて、ユダヤ教の一部であるように振る舞えば、キリストの十字架による迫害もなくなります。ユダヤ教キリスト派というような形で、当時の公認宗教であったユダヤ教のようにみえるからです(色々複雑な問題はありますが、少なくともユダヤ人からの迫害は減るでしょう)。ガラテヤの人々に割礼を受けさせたいと望む人々が、真実には神に従おうとしているのではなくて、肉の欲としてそう求めます。
 それとは正反対のパウロの姿が描かれます。14節です。十字架の他に誇るものはない。これは私達も全く同じなのではないでしょうか。キリスト者には謙遜な人が多いと言われます。けれどもそれは、実際は自分はたいした人間だと思いつつ、謙遜を装うのではなくて、キリストの十字架だけが誇りなので、自分の様々な業績や現実を誇ることはありません。世はパウロに対して、パウロは世に対してはりつけにされています。つまり、根源的第一義的関係はもはやないのです。
 それですから、15・16節です。割礼の有無はもちろん問題ではありません。大切なのは、十字架にはりつけにされた者として、新しく創造されることです。この手紙では割礼を受けるべきかどうかが議論されてきましたが、そういうことを越えて、キリストとの係わりで一度死んで新しく創造されることが大切です。そういう私達、神の新しいイスラエルに、パウロは平和と憐れみを祈ります。
 最後に、17・18節です。パウロは(そして私達も)イエスの焼き印を身に受けているので、イエスのからだとしてなすべきことがあります。間違った人々に惑わされて、パウロを煩わさないでほしいと、パウロは願います。