これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年3月25日「貧しいやもめ」(マルコによる福音書12章35~44節)

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 前回、幾つかの論争の出来事が終わりました。最後は、「もはや、あえて質問する者はなかった」。今日は、主イエスの方から語りだします。三つの部分からなります。三週かけて語ることもできますが、今日で受難節の礼拝も最後です。まとめて取り上げてみます。最初の部分は、メシアはダビデの子(子孫)なのかという問題です。ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるではないか。その答えは、パウロの書いたロマ書の最初をみれば分かります。主イエスの意図は、自分が王となる王国は、この世界のもの(彼らが期待するもの)とは全く異なることを暗に示そうとなさいました。第二の部分は、律法学者です。とても厳しい言葉ですが、人ごとではありません。律法学者も最初は、聖書の専門家として、正しい意図から活動したはずです。それが偽善の罠に落ちていきます。何が問題なのでしょうか。それは、神の眼差しに最も生きているはずの者が、人の眼差しに生きるようになってしまうことです。それとは正反対に、41節からのやもめは、生活費を全部入れます。41~44節。主イエスが、献金の額の大きさを問題にするのではなくて、その思いを大切にしておられることがよく分かります。大勢の金持ちは、有り余る中から、自分の生活は大丈夫なところで献げていますが、このやもめは、全てを献金します。レプトン銅貨二枚というのは、ごくわずかなものですが、それでもレプトン一枚を献げて、残りを生活のためにとっておくこともできたのです。ここで主イエスは何を弟子たちに伝えたかったのでしょう。「このやもめを模範としなさい」ということです。しかしそれは決して、自分の所有物を全て差し出しなさい(それは金持ちの青年には必要なことでしたが、誰でもあてはまることではありませんし、怪しげな新興宗教と同じです)ということではなくて、神との正しい関係に生きるように勧めており、そのために主イエスは十字架に死んで下さいました。

2018年3月18日「一番大切な掟、愛」(マルコによる福音書12章28~34節)

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 今までの二つの議論は、主イエスに対する敵意・悪意に満ちたものでした。しかし今日の律法学者はそうではありません。28節。「立派な」というのは、マルコ記者と共にこの律法学者の評価でしょう。彼の問いは、当時の掟だらけのユダヤ教では尤もなものでした。律法の何もかもを覚えて守るというのは専門家でもなければ、一般の庶民には難しい。だから、簡単にまとめるとどういうことになるのかというのは、大切な課題です。主イエスはお答えになります。29~31節。「第一」を問われているのに、神を愛することと隣人を愛することの二つを主イエスは答えています。ここで大切なことは、二つの愛が一つだということです。どちらか片方だけというのでは、神の掟として十分ではありません。神だけというは、抽象化してしまいます。また人だけというは、愛の根源である神が抜けてしまい、これもまた逆の意味で抽象的です。この二つの愛について、今日は三つのことを申し上げましょう。まず第一に、愛は、感情ではなくて行為です。第二に、隣人への愛において大切な「自分のように」の意味です。私達は、自分が自分を愛するのは当然のことだと勘違いしていないでしょうか。「神に愛されている自分」においてだけ、自分を愛することもまた真実になり、そこでだけ、隣人を自分のように愛することができます。ただし第三に、私達は愛することができない自分の罪に気が付く必要があります。だからこそ、主イエスは神の子でありながら、十字架に死んで私達を赦します。そうして私達は、「神を愛して隣人を愛する」喜ばしい生を生きます。
 律法学者は言います、32.33節。ここで献げ物がどうでもよいと言っているのではありません。神への愛として献げられるのでなければ意味がありません。最後に、34節。「遠くない」の意味が様々に議論されていますが、私は単純に主イエスからの招きの言葉だと思います。最後の一歩を踏み出して、救い・神の国へ来なさいという励ましと招きの言葉なのです。

2018年3月11日「生きている者の神」(マルコによる福音書1章12~17節)

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 前回は、皇帝への税金の問題でしたが、主イエスは税金問題というこの世的な浅い問いから、(主イエスを窮地に陥れようとする策略の問いであったにもかかわらず)見事にもっと深い根源的なことを教えて下さいました。今日の箇所でも、復活はあるかないかというテーマから、復活の出来事の深い意味と根拠、また神と私達信仰者の関係にまで話を深めて下さいます。まずサドカイ派の人々が来ます。18節。復活はないと主張するのには根拠があります。彼らはモーセ五書のみが聖書であると主張していました(当時はまだ正典は確定していなかった)。そしてそこには、復活が記されていないのだから、復活はないという主張です。それに対して、ファリサイ派の人々は、モーセ五書以外も正典とし、更には律法の解説に当たるものも大切にしていました。だから復活はあります。彼らの持ちかけた議論は、当時既にサドカイ派とファリサイ派の人々の間で定番になっていた議論です。19~23節。ファリサイ派の人々の答えも、例えば、最初の夫の妻になるのだなどと決まっていました。主イエスがファリサイ派の人々と同じように答えるならば、そこから先の議論も今までの両派の議論と同じようなものになっていったでしょう。
 しかし主イエスは全く異なることを答えます。24節。聖書も神の力も知らない。彼らにとってはこれ以上はないほどの侮辱です。その意味は、25節。この言葉を以前みたときには、ずいぶん淋しい話だと感じました。しかしそうではなくて、全ての者が神にあって、この世界で一番深い関係である夫婦の関係よりももっと深い絆で結ばれるということです。最後に主イエスは、サドカイ派も認めるモーセ五書から復活があることを論証します。26.27節。生きている者の神なのだから、アブラハム、イサク、モーセも生きる。私達も同じです。たとえこの世界での死を迎えても、神との関係において私達は生きる。この神との関係性こそが、復活の根源的な意味です。

2018年3月4日「神のものは神に」(マルコによる福音書12章13~17節)

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 今日の聖書箇所では、主イエスを陥れようとする人々がやってきます。13節。人々とは、前回、前々回に出てきた祭司長、律法学者、長老たちです。彼らが派遣した二つの党派の人々は、普段は全く相容れない人々でした。なぜならファリサイ派の人々は厳格に神の掟、律法を守ろうとする人々であり、ヘロデ派の人々はローマ帝国、またヘロデと結びついて、現世の利得を大切にする人々です。彼らは主イエスにまずおべっかを言います。ただし単なるおべっかではなくて、主イエスが答えざるを得ないように追い込むのが目的でしょう。14節前半。下手な言い逃れができないように先に手を打ちました。そして、14節後半。これが罠であることは明白です。どちらに答えても窮地に立ちます。主イエスは答えます、15節。デナリオン銀貨は当時、イスラエルも含めてローマ世界で広く使われていました。ですからすぐに持って来ることができます。16節。最後の主イエスの答えと彼らの反応は、17節。実に見事な答えです。もしも皇帝の肖像と銘のゆえに皇帝のものだと思うならば、皇帝へ返す(税金を納める)べきだし、それでもなお皇帝のものではないと考えるならば納める必要はありません。
 ここで主イエスは何を教えておられるのでしょうか。長くこの主イエスの言葉は、二王国説的な誤解をされてきました。しかし最近の学者でそのように誤解して解説する方は少ないようです。もしもデナリオン銀貨に皇帝の肖像と銘が彫られているとしたら、そしてそれゆえ「皇帝のもの」なのだとしたら、「神のもの」であるのは何であり、どこに神の肖像と銘が彫られているのでしょう。私達人間は、神の像に形作られました(家庭集会)。すなわち私達自身こそが、「神のもの」です。実は、(前回のぶどう園の例えでもみましたように)全ては神のもの、ことに私達神から世界を統治すべく委ねられている私達は、神のものです。神のものは神に返しましょう。

2018年2月25日「ぶどう園は誰のもの」(マルコによる福音書12章1~12節)

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 今日の聖書箇所は主イエスがお語りになった例え話です。1節前半。彼らとは、「権威」について主イエスに対して問いただした神殿の人々でしょう。この例え自体は分かりやすいもので、「彼ら」でさえ、その意味を理解しました。12節。主人は神様、農夫たちは神殿で権力のある方たち(つまりこの話を語られている人々)、ぶどう園はイスラエルの神殿や人々です。更に、主人(神)が送られた僕たちは預言者たちであり、愛する息子は主イエスです。主人は自分の当然の権利として、1節後半2節。そもそも私有財産制が正しいのかという問題はあります(東欧の壮大な実験や最近の経済学の話題など)。しかしながら、主人は最初の資本投下をしているのだから、(割合が主人と農夫たちとでどのようであるべきかは別として)収穫を受けとる権利があります。しかし農夫たちは、僕に暴力を振るったり、殺したりしてしまいます。この主人は忍耐強いのでしょう、最後には、愛する息子を送ります。6節。これで農夫たちが、主人の名代である息子を尊重すれば問題はないのですが、7・8節。さて農夫たちの愚かさは明白です。9節。この世界の常識に従えば、それはそうだという話です。しかしこの最後の所が、この例えと神・主イエスのなさり方では、決定的に違います。主イエスは、最後に詩編118編の22.23節を引用なさいます。もしも9節で語られた通りになさるのであれば、この引用は意味不明です。主イエスは確かにこの例えの息子のように殺されました(福音書の物語ではこれからですが)。これはまさに、家を建てる者たち(宗教権力者たち)の捨てた(殺した)ものを神が隅の親石(日本でいうと大黒柱でしょうか)としてお用いになりました、私達人間にはできない復活という奇跡によって。さあ、私達はこれらの宗教権力者たちの仕方をただ愚かであると嘲るのではなくて、私達もまたそうであることを認めましょう。そして、それにも関わらず救おうとなさる神の意志を大切にしましょう。

2018年2月18日「権威を問う」(マルコによる福音書11章27~33節)

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 エルサレム入城以降の出来事のなかには幾つもの論争物語がありますが、今日の聖書箇所はその最初のものです。まず、祭司長、律法学者、長老たち(一つ目の受難予告に出てきた人たち、当時の権力者たち)が問います。27・28節。「このようなこと」は、前日の宮清めの出来事をまず指すかと思いますが、それと同時に主イエスがガリラヤ地方でしてきた宣教活動の全体も含むでしょう。また神殿の境内で様々に語られたことも含まれるかもしれません。自分たちこそが、この神殿で権威ある者たちなのだと考えている彼らは、自分たちの権威のゆえに、主イエスの、このようなことをする権威を問います。主イエスは、まっすぐに神の・また神の子である自分の権威を答えてもよいです。しかし主イエスは分かっています。自分の神の子としての権威を認めない人々にそれを語っても受け入れられない。また認める人々は、主イエスが宣言なさらなくても、主イエスがお語りになる言葉そのものによって、権威が分かる。
 だから、答えます、29・30節。彼らには答えることのできない問いです。もしも彼らが、「天から」と答えれば、「私もだ」と答えることができます。また「人から」だと答えれば、主イエスは、「ヨハネのことを理解できないあなたがたは、私のことも理解できない」と仰ることでしょう。しかし彼らは、31~33節前半。彼らの意見は明白です。「人から」です。しかし彼らは、「群衆が怖かった」ので、「分からない」と答えます。彼らには、真実の意味での神への畏れがありません。だから、人を恐れ、答えることができません。主イエスは仰います。33節後半。この出来事は、時の権力者たちの問いを主イエスが上手にかわしたというだけの話ではありません。神の権威に生きるはずの人々が、人々を恐れて、神の権威をないがしろにしていることが問題です。あなたは人の権威に服従しますか、それとも神の権威に服従する自由を生きますか。

2018年2月11日「少しも疑わず」(マルコによる福音書11章20~25節)

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 今、私達は丁寧にエルサレム入城からの一週間をみています。今日は、三日目の朝の箇所です。20・21節。前回(前日)の12~14節を受けての記事です。実は、エルサレム入城以降、主イエスは一切奇跡・癒しを行わないのですが、14節の主イエスの言葉は、このいちじくの木が枯れるという仕方で、実現しています。季節でもないのに、実がなっていないというのは理不尽ではないかというのが、普通の感想でしょう。しかしこの箇所は、宮清めの記事を挟んでいることから分かりますように、当時の神殿が、まるで葉ばかり茂っていて実がならない現実、口先だけの祈りしかなく、祈りの家としての実質を失っていることに対する警告です。また、宮清めで祈りの大切さが示されましたが、では祈りとはそもそも何なのかを主イエスが身をもって示しておられます。ペトロの指摘に対して、主イエスが語ります。22・23節。まず「神を信じなさい」です。現代のような、まるで神がおられないかのように生きる方々が多い世界ではなくて、神の民であるというアイデンティティに生きるユダヤの世界で、この言葉はどんな意味をもつのでしょう。それは、形式的な神信仰ではなくて、真実に全能なる神と共に生きる信仰です。だから、「そのとおりになる」のです。しかしそれは、神を下僕とする信仰ではありません。私達が神の僕なので、その祈り(神との深い交わり)において、私達は、自分勝手な祈りから、神中心の祈りへと育てられます(ゲツセマネの祈り参照)。だから少しも疑わずに信じるならば、そのとおりになります。24節。
 しかしそれは、神の子であられる主イエスはまだしも、私達にはとても困難なことではないでしょうか。それだから、25節。なぜ困難なのかといえば、私達は弱い罪人にすぎないからです。信仰を生ききることができないからです。私達が神のなさるのと同じ赦しに生きはじめるとき、私達は主イエスの十字架によって罪赦されて、少しも疑わない者へと育てられていきます。