これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年2月11日「少しも疑わず」(マルコによる福音書11章20~25節)

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 今、私達は丁寧にエルサレム入城からの一週間をみています。今日は、三日目の朝の箇所です。20・21節。前回(前日)の12~14節を受けての記事です。実は、エルサレム入城以降、主イエスは一切奇跡・癒しを行わないのですが、14節の主イエスの言葉は、このいちじくの木が枯れるという仕方で、実現しています。季節でもないのに、実がなっていないというのは理不尽ではないかというのが、普通の感想でしょう。しかしこの箇所は、宮清めの記事を挟んでいることから分かりますように、当時の神殿が、まるで葉ばかり茂っていて実がならない現実、口先だけの祈りしかなく、祈りの家としての実質を失っていることに対する警告です。また、宮清めで祈りの大切さが示されましたが、では祈りとはそもそも何なのかを主イエスが身をもって示しておられます。ペトロの指摘に対して、主イエスが語ります。22・23節。まず「神を信じなさい」です。現代のような、まるで神がおられないかのように生きる方々が多い世界ではなくて、神の民であるというアイデンティティに生きるユダヤの世界で、この言葉はどんな意味をもつのでしょう。それは、形式的な神信仰ではなくて、真実に全能なる神と共に生きる信仰です。だから、「そのとおりになる」のです。しかしそれは、神を下僕とする信仰ではありません。私達が神の僕なので、その祈り(神との深い交わり)において、私達は、自分勝手な祈りから、神中心の祈りへと育てられます(ゲツセマネの祈り参照)。だから少しも疑わずに信じるならば、そのとおりになります。24節。
 しかしそれは、神の子であられる主イエスはまだしも、私達にはとても困難なことではないでしょうか。それだから、25節。なぜ困難なのかといえば、私達は弱い罪人にすぎないからです。信仰を生ききることができないからです。私達が神のなさるのと同じ赦しに生きはじめるとき、私達は主イエスの十字架によって罪赦されて、少しも疑わない者へと育てられていきます。