2021年3月7日「何の権威で」(マタイによる福音書21章23~27節)
今日の聖書箇所は、エルサレム入城の翌日、月曜日のことが続きます。まず、23節です。当時の宗教的・政治的権力者(小さな権力者)たちが、主イエスの行いに対して、その権威を問います。昨日のエルサレム入城や宮清めのことが問題になっています(主イエスの公生涯の全てが、とも、とれます)。確かに、主イエスのなさったことは、権力者たちの神経をさかなでするようなことです。主イエスに群衆の人気がなかったら、もう逮捕しているかもしれません。権力者たちは、群衆を恐れつつも、何とか「問題」を解決しようとします。群衆への恐れは、主イエスの答え(同時に問い、24節、25節前半)に対する彼らの応答からよく分かります。25節後半から27節です。
権力者たちが何を間違えたのか、私達にはよく分かると思います。権威の源である神と直接繋がっており、それゆえ権威そのものである主イエスに、「何の権威で」とたずねたことです。「権威」について、哲学的な考察をしますと、説教が終らなくなってしまいますので、今日の箇所では、そうしてよい正当性・根拠位の意味にとりましょう。権力者たちは、自分たちこそ、何をしてよくて何をしてはいけないかを決める権威があるのだと考えていました。だから主イエスに尋ねます。しかし彼らは、恐れの内に、答えません。それで主イエスも答えません。
この問答には、税金問答(22章)のような、主イエスの賢さ・知恵もみることができます。しかしそれだけではありません。もしも、権力者たちが自己保身に走るのではなくて、逃げないで、彼らなりに誠実に答えていたならば、主イエスはご自身の権威についてきちんと教えたのではないでしょうか。
この出来事は、私達には他人事の遠い昔の話でしょうか。決してそうではありません。私達が、主イエスの前に立つとき、私達は、主イエスの権威を受け入れて従うか、拒絶するか二つの一つです。「保留」はありません。しかし私達は、本当はありもしない自分の「権威」によって、主イエスに対して、「何の権威で」と問いただす罪を(ここに出てくる権力者たちと同じように)犯してしまうことがないでしょうか。主イエスに従いましょう。