これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年3月11日「生きている者の神」(マルコによる福音書1章12~17節)

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 前回は、皇帝への税金の問題でしたが、主イエスは税金問題というこの世的な浅い問いから、(主イエスを窮地に陥れようとする策略の問いであったにもかかわらず)見事にもっと深い根源的なことを教えて下さいました。今日の箇所でも、復活はあるかないかというテーマから、復活の出来事の深い意味と根拠、また神と私達信仰者の関係にまで話を深めて下さいます。まずサドカイ派の人々が来ます。18節。復活はないと主張するのには根拠があります。彼らはモーセ五書のみが聖書であると主張していました(当時はまだ正典は確定していなかった)。そしてそこには、復活が記されていないのだから、復活はないという主張です。それに対して、ファリサイ派の人々は、モーセ五書以外も正典とし、更には律法の解説に当たるものも大切にしていました。だから復活はあります。彼らの持ちかけた議論は、当時既にサドカイ派とファリサイ派の人々の間で定番になっていた議論です。19~23節。ファリサイ派の人々の答えも、例えば、最初の夫の妻になるのだなどと決まっていました。主イエスがファリサイ派の人々と同じように答えるならば、そこから先の議論も今までの両派の議論と同じようなものになっていったでしょう。
 しかし主イエスは全く異なることを答えます。24節。聖書も神の力も知らない。彼らにとってはこれ以上はないほどの侮辱です。その意味は、25節。この言葉を以前みたときには、ずいぶん淋しい話だと感じました。しかしそうではなくて、全ての者が神にあって、この世界で一番深い関係である夫婦の関係よりももっと深い絆で結ばれるということです。最後に主イエスは、サドカイ派も認めるモーセ五書から復活があることを論証します。26.27節。生きている者の神なのだから、アブラハム、イサク、モーセも生きる。私達も同じです。たとえこの世界での死を迎えても、神との関係において私達は生きる。この神との関係性こそが、復活の根源的な意味です。