これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年5月13日「良いことをしてくれた」(マルコによる福音書14章1~9節)

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 今日の箇所から、受難物語です。まずマルコ福音書記者は、主イエス殺害の計略から描きます。そして次回(再来週)の最初の箇所で、ユダの裏切りの企てがあります。マルコがよく用いるサンドイッチ構造です。ユダヤの宗教権力者たちと主イエスの弟子の一人が共に人間的な「死の企み」を練る中で、たった一人の女性の行為が描かれます。最後、9節。主イエスが仰ったように、二千年の間、この人のしたことは記念として語り伝えられてきました。今日の礼拝もまた、その一つでしょう。ここ、幕張教会では何よりも大切なこととして福音が宣べ伝えられています。だからここでも、この女のしたことは語り伝えられます。
 まず出来事は3節に描かれています。3節。他の福音書と異なり、マルコはこの女が誰であるのか、どんな素性の女であるのか、一切描きません。またなぜこの女がこんなことをしたのか、女の動機も書きません。ただ、事実を淡々と書きます。恐らく男たちだけの食事の席(女性は給仕するのみ)に急に女が入ってきて何かをするだけでも、当時としてかなり変わった目立つ行為です。しかもとても高価なナルドの香油を惜しげもなく主イエスの頭に注ぎかける。周りの人々(福音書によっては、弟子あるいは、イスカリオテのユダ)は憤慨し厳しくとがめます。4・5節。当時の日雇い労働者の一年分の給与に当たる額です。そこからこの女は、身分の高いお金持ちの女性なのだとか、売春婦をしていてお金があったのだなどという推測もありますが、分かりません。
 これに対して主イエスは仰います。6~9節。主イエスは、「良いことをしてくれた」と評価します。これは「美しいこと」という言葉です。この女も含めて(主イエス以外は)誰もまだ、これから起こる十字架の死を知らない中で、埋葬の準備がなされた。私達は、「そこにいた人の何人か」になってしまいがちなのではないでしょうか。そうではなくて、この女のように、「今自分が主イエスのためにできることは何か」を思い行う信仰でありたいものです。

2018年5月6日「目を覚ましていなさい」(マルコによる福音書13章32~37節)

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 13章全体で一塊(小黙示録と呼ばれる)で、幾つかに分けて読んできましたが、それも今日で終わりです。主イエスは最後に何を仰るのでしょうか。33、35、37節で、主イエスは、「目を覚ましていなさい」と仰います。この短い中で、三回も繰り返します。今まで気をつけていなさいということを繰り返しましたが、主イエスは最後に、「気をつけて、目を覚ましていなさい」と仰います。32・33節。天使たちはまだしも、主イエスは子なる神なのだから、「知らない」は違うのではないかと言われることがあります。しかしたとえ神であっても、この地上に人間として生きる時には、何もかも分かる全知全能の神、父なる神と異なるのは、当然のことでしょう。
 そして34節からは、この終末・再臨の出来事を、旅に出た主人の帰宅に例えます。34節。主イエスは、私達に仕事を割り当てて責任を持たせて昇天なさいました。終末・再臨を待ち続けることはとても大切なことですが、ただぼーっと待っていればよいのではありません。それぞれに果たすべき務め・責任があります。「待ちつつ、急ぎつつ」(バルトの尊敬するブルームハルトの言葉)です。その務めは人によって様々であって、自分の務めが何であるかは、祈りの内に尋ね求めで教えて頂くべきことです。これは大きな慰めであり、励ましです。誰一人として、不要な意味のない人などいないのですから。
 35・36節。「どうせまだ主人は帰って来ないさ」と眠り惚けている場合ではありません。いつ帰って来てもいいように(いつ終末・再臨が来てもいいように)私達は目を覚ましていることが、何よりもまず、求められています。しかも、37節。この時に主イエスの言葉を聞いていた四人だけではなくて、すべての人への言葉だと最後に主イエスは念を押します。さあ、目を覚ましていましょう。

 

2018年4月29日「滅びない言葉と共に生きる」(マルコによる福音書13章28~31節)

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 13章全体で一塊ですが、幾つかに分けて読んでいます。今日の箇所は、最後から二つ目です。まず、いちじくの木から教えを学びなさい。28節。イスラエルは気候として春がとても短い。だから冬の終わりには、既に夏の兆しがあります。枝が柔らかくなり葉が伸びる。この幕張辺りでもかなり自然が失われていますが、それでもそこここに緑があって、季節の移ろいが分かります。29節。しかしこれは無理があるのではないでしょうか。私達は毎年季節の移ろいを見て感じて、経験を積んで季節を読むことを学びます。しかし人の子が戸口に近づいている、この世界の最後の時が近づいていることは、ただ一度限りのことであって、誰も経験していないことであり、経験から学ぶことはできません。では主イエスは何を教えておられるのでしょうか。そもそも「これらのこと」とは何でしょう。今まで語ってきたような、戦争、地震、飢饉、憎むべき破壊者、偽メシアなど、様々な苦難・惑わしがあったらということでしょう。そしてそれは、主イエスの十字架と復活の後、繰り返し起こってきています。だから主イエスは、(次回の「目を覚ましていなさい」に繋がるのですが、)いつでも主イエスが戸口に近づいている、主は近いということを知っていなさい、ということです。確かに今、信じる者には、主イエスが(目には見えなくても)近くにおられて、助けて下さいます。更に、戸口に近づいているという真剣な信仰の思いにおいて(いついつと予言して惑わすのは論外ですが)、私達は今生き生きと生きます。そのような文脈で、主イエスは、大切なことを語るときのいつもの決まり文句、「はっきり言っておく」を伴って仰います。30・31節。終末が近いという信仰の緊張感と共に大切なことは、「これらのことがみな起こるまではこの時代は決して滅びない」ことを知っていることです。そして、天地が滅びても、主イエスの言葉は滅びないし、この言葉と共に生きる私達も滅びに終わることは決してありません。

2018年4月22日「気をつけていなさい」(マルコによる福音書13章14~27節)

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 前回から講解説教に戻りまして、主イエスと弟子たちとは神殿の境内から出て行かれます。そのとき、神殿に対する弟子の一人の驚嘆の言葉に応えて、主イエスは神殿の崩壊を予告しました。その主イエスの言葉をきっかけにして、このマルコ福音書で最も長い主イエスの言葉が語られます。前回は、その最初の部分として、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。今日はその続きとして終末の出来事が語られます。しかも、23節。一部分ではない、必要な全てのことが語られます。まず、14節の「憎むべき破壊者が建ってはならない所に立つ」とは一体何でしょうか。既に起こっていたこと、あるいは皇帝カリグラのこと、つまり神殿に神を信じないで神を自称する者が立つことが、歴史的には想定されます。しかしそれ以上に、このときこれから起きようとしていること、主イエスの十字架の出来事を思うことができます。さらにそれは、21・22節。十字架の出来事だけではなくて、それ以降も偽物が現れる。神様が縮めては下さるものの、今までにない苦難が来る。19節。しかし私達は希望をもって、この大きな苦難の時を待っていてよいのです。なぜならば、このような苦難の後には、人の子、主イエス・キリストが来られます。24~27節。地上での様々な災厄だけではなくて、天体の全てを揺り動かすほどの出来事が起こります。でもそこで、わたしたちは人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見ます。私達信じる者だけではなくて、全ての者が見ます。終末の預言などと申しますと、恐ろしいイメージがつきものですが、私達は主を信じる時に、人間的な恐れでもって終末を迎えるのではなくて、喜びをもってそのときを思い描くことができます。ただ一つ、私達がこの希望にしっかりと立つことを邪魔して惑わそうとするものに気をつけていることが大切です。この最後の丁寧な主の言葉から学んで、気をつけて生きましょう。

2018年4月15日「耐え忍ぶ」(マルコによる福音書13章1~13節)

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 今日から講解説教に戻ります。この13章は、ヨハネの黙示録に対して、小黙示録と呼ばれています。全体で一纏まりなのですが、今日はその最初の所です。まず主イエスは、今まで論争し教えてきた神殿の境内を出て行かれます。そのとき、弟子の一人が言います、「先生…」。主イエスは答えて言われます。2節。これは大変なことです。私達は既に第二次ユダヤ独立戦争を知っていますから、それが世の終りでも何でもないことを知っています。しかし弟子たちは、主イエスが世の終わりを語っていると感じたことでしょう。3・4節。オリーブ山は、エルサレムの向いの山で、エルサレム全体を見渡せる位置にあります。四人の弟子たち(最初からの弟子たち)は、先程の主イエスの預言の言葉の意味・時期・徴を知りたくて、尋ねます。それに対して主イエスが語られる言葉が、この章の終りまで続きます。まず主イエスが仰るのは、色々なことが起こるけれども、まだ世の終わりではない、ということです。5~7節。主イエスはこの箇所で、一貫して「気をつけなさい」と弟子たちを諭します。気をつけなければならないような現実が起こる。まず、主イエスの名を名乗る偽キリストが現れる、また戦争が起こる。でもそれは世の終わりではない。更に、8節。戦争だけではなくて、飢饉や地震も起こる。でもそれは、産みの苦しみの始まりであって、まだ世の終わりではない。9~11節。様々な天災や人災だけではなくて、弟子たち自身が世の権力者の前で語らなければならなくなる。でも、聖霊が語るので心配はいりません。更に、そういう出来事も全て、福音があらゆる民、全世界に宣べ伝えられていくために用いられます。弟子たち・私達は、様々なこの世界の出来事に惑わされないで、自分自身のことに気をつけます。なぜならば、大切なことは、何が起ころうが私達がしっかりと信仰に立って生きることだからです。最後、12・13節。この福音書が書かれた頃、既にネロの迫害をはじめ、様々な仕方で、教会は迫害を受けていました。だからこそ、「耐え忍ぶ」こと、しっかりと立ち続けることが必要です。

2018年4月8日「信じなかった」(マルコによる福音書16章9~13節)

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 今日は、前回の続きの箇所です。次回から講解説教に戻ります。前回丁寧にお話ししましたように、本来のマルコ福音書は8節までで終わっています。しかし結びがないということで、9節以下が書き足されました。ただし、好き勝手に誰かが書いてみたのではありません。既にそのころ、主イエスの復活の話として広く知られていた出来事から、この記事を書いた人が特に強調しようとしたことを加えました。例えば一つ目の記事、9~11節では、16章1節からの記事に出てくるマグダラのマリアが、まるでここではじめて出てくるかのように紹介されています。前の記事では三人いたので、一人を紹介するのは不自然であったけれども、この箇所ではマグダラのマリアだけが出てくるので9節後半のような紹介をしたのだと読むこともできます。9節。しかし別の記事であったと読む方が自然でしょう。10節。彼女は、きちんと知らせました。しかし、悲しみに閉ざされた人々は彼女の言うことを信じません。11節。
 更に、明らかにルカによる福音書のエマオへの途上での出来事の要約と思われる記事です。12・13節。ここも信じないという結果に終わっています。ルカでは異なる形になっていますので、この「信じなかった」ことが、この付加の特徴・付け加えたかったことです。「信じなかった」。全体の結論は、14節以下の記事、主イエスが不信仰とかたくなな心をおとがめになったこと、そしてその後の出来事をみなければなりません。しかしこの箇所までで読んで分かることは、最初の弟子たちの復活の告知に対する反応は、「信じなかった」ことです。自分に現れるまでは信じることができません。私達もそうではないでしょうか。(目には見えなくても)復活なさって今も生きておられる主イエスと出会って、私達は信じる者にして頂きます。その信仰すら、私達が自分の力でなすものではなく、与えられます。

2018年4月1日「恐ろしかった」(マルコによる福音書16章1~8節)

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 イースター、おめでとうございます。
 今日は、何章か飛ばしまして、このマルコによる福音書の復活の記事です。今日は特に三つのことに注目しましょう。
 まず第一に終り方です。9節から後に鍵各個がついていることから分かりますように、この箇所で本来のマルコによる福音書は終わっています。8節。この三人の女性たちは、若者(神の使い)から復活の告知を受けたのですから、大喜びしても良かったはずです。しかし正気を失うほどに恐ろしかったのです。勿論、この後正気に帰って、復活の出来事・天使に告げられたメッセージを伝えたことでしょう。しかし最初は、とにかく恐ろしかった。このマルコによる福音書の終り方があまりにも唐突だということで、以前は最後が失われたのではないかと推測されました(写本の巻物ではよくそういうことがある)。だからこそ、9節以降が後に付け加えられたというのです。しかし今は、事実マルコは8節で筆を置いたのだと捉える人が多くなりました。復活という神の御業は(6節の「復活なさって」は正確に訳せば「復活させられて」です)、私達人間の理性や理解を越えた出来事であり、本来、復活に接するならば、恐れこそが自然な反応です。そしてこの福音書はここで閉じられていません。使徒言行録がそうであるように、この先に弟子たち、そして私達の物語が続いていく、だからマルコは敢えてこのように福音書を終わりました。
 第二に、天使が語る言葉の中身から、空の墓です。6節。ここで女性たちが示されたのは、復活なさった主イエスではなくて、墓にはおられないという事実です。第三に、「ガリラヤへ」です。7節。主イエスと弟子たちの活動の主な場所であったガリラヤに主イエスは先立って行かれる。無理解でどうしようもなかった(逃げ出した)弟子たちが、十字架によって全てを赦されて、新しく歩みだします。しかしその歩みは常に主イエスが先立ち行かれます。私達の恐れを越えて。