これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年1月27日「平和の神は」(フィリピの信徒への手紙4章8・9節)

 前回は、思い煩わないで、神に全てを打ち明けることで、神の平和に守られた生き方をすることが勧められていました。今日は手紙の最後の部分になります。一つの見方は、この手紙が幾つかの手紙を組み合わせたものであり、今日の箇所は4章1節の続きだと読みます。その手紙の締めくくりに、もう一度大切なことをパウロが語っています。いま一つ、この手紙が今ある形で書かれたと致しますと、パウロは手紙の締めくくりを「終わりに」と述べて書き始めましたが、「さて」(10節)と述べて、追伸のように贈り物の話を書きました。
 最後にパウロは、何を心に留めるべきかを述べます。8節。ここに挙げられている徳目は、当時の社会でフツウに評価されていたものです。パウロの敵対者たちのように、「もう私たちは完成している」といって、努力を放棄してしまうのではなくて、大切なことは心に留めるべきです。その理由は、様々に考えられます。迫害の時代であるからこそ、迫害する者たちが、「こんなにすばらしい人々を自分は否定しているのか」と感じさせることもあるでしょう。広い意味でいえば伝道です。更には、思い煩わないで喜んで、神に感謝して生きる姿の、自然な帰結として、神に属するこれらもの(真実なこと…)を心に留めるはずです。そして9節前半。パウロは、「既に自分は完成した」などと自惚れる敵対者のように、ではなくて、自分と同じように、目標を目指してひたすら走る(3章12節以下)歩みをフィリピの教会の人々に求めています。最後はそのような歩みの結果として、三位一体の神の約束を取り次ぎます。9節後半。平和の神が共にいて下さる、これほど心強いことはありません。

2019年1月20日「神に打ち明ける」(フィリピの信徒への手紙4章6~7節)

</p 前回の箇所では、(今までに何回も勧められてきた)喜ぶこと、また広い心(寛容の心)を示すことが勧められていました。主は近いからです。今日の箇所では更に、思い煩わないことが勧められています。6節前半。これは、主イエスご自身も繰り返し教えられたことです(マタイによる福音書6章25節以下など)。教会に来るようになると、このこともまた繰り返し勧められるのですけれども、これがなかなか難しい。主が近くにおられるのですから、この主に全てをお委ねする。自分は自分で最善を尽くすけれども、その先は主が助けて下さることに信頼して、全てお任せしてしまいます。だから、6節後半。私たちがすべきことは、最善の努力であります。そしてその中には、二つの大切なことがあります。まず第一に、感謝です。今の現状を神が恵みとしてわたしに与えて下さっていることが分かりますと、感謝が生まれます。時には、そう簡単ではないこともあります。苦境に立たされていて、何も先が見えないと感じることは、生きていればあるものです。しかしそこで、パウロが「私は主にあって苦しむことをも賜っている」(1章29節)という思いにまで、信仰・神への信頼が育てられていきますと、自分にとっての世界の見え方が変化して、まず感謝になります。第二に、自分一人で背負い込まないで、全てを神に打ち明けることです。祈りの最後には確かに、主イエスがゲツセマネの園で祈りましたように、「御心がなりますように」があるでしょう。しかしそこへ至る過程で、まず、神に全てを打ち明けることが大切です。そのとき、7節。この神の平和は、新年礼拝で申しましたように、広い深い豊かな意味があります。そして「守る」は、兵が城砦を守るような守り方です。その神の平和は、あらゆる人知を超えています。自分の頑なな心を事実として認めて、神に全てを打ち明けて、神の平和に守られる歩みをしましょう。

2019年1月13日「広い心を」(フィリピの信徒への手紙4章4・5節)

 今日からまた、フィリピの信徒への手紙の講解説教に戻ります。前回の箇所では、二人の女性指導者の間の争い・不一致・不和の問題でした。今日の箇所では、もっと一般的な勧めです。4節。この「喜ぶこと」については、既に何回もこの手紙では扱われてきた勧めです。「主において」と「常に」の二つのキーワードに基づいて少しだけ振り返りましょう。私たちキリスト者の生においては、様々な困難や試練はあるけれども、主イエス・キリストの十字架と復活に基づく喜びが常にあるのだ、これこそ私たちの生の基底をなすものです。
 そして、5節前半。「広い心」は、以前の文語・口語訳聖書では寛容、また新しい翻訳では、寛容な心です。元のギリシャ語では、寛容よりも意味の幅が広い言葉です。寛容と言いますといつも思い出しますのは、自衛官合祀訴訟ではないでしょうか。そこでは、少数者・弱者に対して、多数派が寛容を求めるという、とても醜い日本の司法の、残念なあり方がはっきりと分かる判決でした。この寛容について思い巡らせるときにも、私たちはやはり主イエスの姿を思い起こしましょう。一つには、主イエスは律法学者やファリサイ派の人々に対しては、とても厳しいことを仰います。その一方で、例えば姦通の女には、「罪に定めない」と、寛容です(ヨハネ8章)。そこにあるのは、罪や罪を罪と認めないことに対しての厳しさと、罪人に対する赦し・寛大さです。私たちがもともと心が広い・寛容だなどというのではなくて、ただ主と出会い、主の寛容さに包み込まれた私たちとして、私たちもまた広い心で、寛容に他者と接することができます。5節後半。主は、空間的にも時間的にも近い。だから、私たちはこの主と共に広い心で生きましょう。

2019年1月6日「平和を追い求めよ」(詩編34編)

 今日は、ローズンゲン(日々の聖句)の年の聖句です。15節の後半、「平和を尋ね求め、追い求めよ」。最初に、「289版の序」を紹介いたします。ここにヘルンフート兄弟団の思いを聞くことができます。……。
 今日の聖書箇所、詩編34編は、感謝の賛美の歌です。しかも日本でいういろは歌の形なので、若干無理がありますが、実によく編まれています。2~8節でまず、主が答え助けてくださったことに対する感謝、賛美があります。そして9節前半は、この詩で最も有名な言葉でしょう。私たちが主の救いに与り洗礼を受けたのに、なぜ未だにこの罪と悪に満ちた世界に生き続けるのか。一つには、伝道の使命があるでしょう。しかしまた同時に私たちは、この世界で、主の恵み深さを「味わい、見」るためです。9~1 1節で、詩人は、主を畏れる人に与えられる確かさを語ります。
 そして、12節から、箴言やコヘレトの言葉に似て、訓戒になります。12~15節。15節の前半で勧められていることは、主イエス、そして新約聖書の全体が勧める悪と善への、私たち神を畏れ敬う者たちの対処です。悪は、戦って倒すべき相手ではありません。なぜならそのとき、私たちもまた悪になってしまう危険が非常に大きいからです。そして善は倦むことなく追求すべきものです。
 後半が、今年の年の聖句になります。「序」にありますように、確かにこれは、「一見、非常に平凡で当たり前に思え」ます。しかしそうではありません。何と多くの集団エゴイズムがはびこっていることでしょう(○○ファーストのような)。それは、平和の礎となる信頼と協調を壊していきます。殆どの戦争が「平和のため」と主張してはじめられてきました。どんなに小さくても私たち自身から平和を追い求める歩みをなしていきましょう。私たち教会はそのことを主から主のからだとして委ねられているのですから。

 

2018年12月30日「共に戦う」(フィリピの信徒への手紙4章2~3節)

 今日の聖書箇所は、前回(4章1節、先々週)からは少し唐突な感じがします。そこで、3章1節前半から今日の箇所へ繋げて読んで、前回までの箇所は別の手紙だという読み方もあります。パウロは手紙も終盤に近づく中で、フィリピの教会で実際にあった問題に言及しているのは間違いないでしょう。それは、エボディアとシンティケという二人の女性指導者の間の争いです。その問題の中身については、私たちは何も知りません。ただ、犬どもと言われるようなキリストの十字架に敵対して歩んでいる人々ではありません(つまり根源的な真理問題ではありません)。もっと何か具体的な、福音信仰の点では一致しているけれども、意見の一致が難しい事柄があったのでしょう。教会にもそういうことがあるのは事実です。パウロが愛して特別な関係を築いていたフィリピの教会でさえそうです。この二人に対してパウロは、「主において同じ思いを抱」くように勧めます。2節。1・2章でも、繰り返しフィリピの教会の人々に対して勧めてきたことを、特にこの二人の女性に勧めます。同じ思いを抱くことは実に難しい課題ですけれども、主イエス・キリストがおられるからできるのだと信じます。
 そして、この二人だけではなくて、他の人々にも協力と支えを求めます。当事者だけでは和解できなくても、第三者の助けで何とかなる、解決することは多いのです。3節前半。「真実の協力者」とは誰なのか、様々な議論がありますが、手紙が読まれるときに聞いている全ての人々ではないでしょうか。3節後半。「命の書に名を記されている」とは、ユダヤ教後期黙示文学や死海写本に出てくるのですが、「本国は天に」(3章20節)とここでは同じ意味です。一致のための共通の強力な基盤は、共に戦った事実です。フィリピの教会の創設に当って、この二人の女性も労したことでしょう。私たちはまず、「共に戦う」と言えるほどに真剣に福音宣教・伝道に邁進しているかが問われています。

2018年12月23日「神の恵みが現れた理由」(テトスへの手紙2章11~15節)

 

 クリスマスおめでとうございます。
 今日はフィリピの講解説教をお休みして、聖書日課のクリスマスの聖書箇所(クリスマスによく読まれる聖書箇所)です。11節。この恵みとは、神の子イエス・キリストを与えられたことにほかなりません。「すべての人々」がその対象です。しかし残念ながら、この恵みがまだ与えられていないかのように生きる方々もいます。この恵みが、「わたし」にも与えられているのだと分かったときに、人は洗礼を受けてキリスト者としての歩みをはじめます。この恵みがもたらす救いは、単に(今生きている現実とは関係なく)天国へ行くことができる切符ではありません。この恵みは、二つのことを教えます。一つ目は、12節。この世界での生き方を教えます。これは、ユダヤ教や当時のローマ世界でも通用するような一般的なものです。しかしそれら他のものと決定的に異なる点があります。それは私たちが自分の力で努力するという話ではなくて、その恵みがそのように導いてくれることです。だから、14節の主語は、私たちではなくてキリストです。二つ目、13節。終末・再臨を待ち望み続ける生活です。そもそも何のためにキリストはわたしたちのためにご自身を献げられたのでしょうか。14節。キリストが聖霊によって清めてくださるのであって、私たちが努力して清くなるのではありません。ここを間違えると、ファリサイ派の人々、律法主義者の人々と同じ過ちを犯します。たとえ、テトスがまだ年若いとしても、きちんとこの福音を伝え続ける使命があります。15節。さあ私たちはクリスマス、主の御降誕を十字架・復活へと繋がる、この救いの恵みのはじまりとして喜び祝いましょう。

2018年12月16日「しっかりと立て」(フィリピの信徒への手紙4章1節)

<phttps://www.dropbox.com/s/?dl=0> 今日から4章(最後の章)に入りますが、多くの方がそう捉えるように、今日の1節までで、3章からはじまった勧告が終わります(新共同訳聖書もそうです)。パウロは、十字架に敵対して歩んでいる人々の最後が滅びであって、あなたがたはそうならないように気をつけなさいと勧めてきました。どうしたらよいのでしょうか。自分たちはもう完成しているのだなどとうぬぼれないで、途上にある者、「既に」と「未だ」の間にあって、目標を目指してひたすら走ることです。本国は天にあり(20節)という自覚をもって、旅人として21節のような希望を生きることです。しかしそれは、容易なことではありません。まず外からの迫害や誘惑があります。更に(パウロの当時は)教会の中にも、「十字架のみ」を否定しようとする人々がいます(否、二千年の間、そういう力との戦いがずっとありました)。私たち自身の心の中に、悪の力は働きかけて、一筋に信仰に生きることから、外れる様に仕向けます。
 だからパウロは、この箇所の最後に、「しっかり立ちなさい」と勧めます。今日のこの箇所について、三つのことだけをみましょう。まず第一に、パウロは、フィリピの教会の人々に対して、率直な愛情を吐露しています。私たちは愛する者が滅びることを願いはしません。何とか救われてほしい、だから、パウロは勧めてきました。第二に、「冠」という言葉から分かる、パウロの救いの理解、救いの連帯性です。第三に、私たちがしっかりと立つことができるのは、(既に今まで丁寧にみてきましたように)ひたすら「主にあって」です。私たちが自分の無理な努力によって、しっかりと立つことなどできません。ただ主イエス・キリストの中で、ただ主に従う歩みの中で、わたしたちは神によってしっかりと立たせられます(1章27節参照)。