これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年3月29日「狼の群れの中で」(マタイによる福音書5章

 前回から10章に入りました。今日は、前回の続き、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉です。特に印象深いのは、最初の16節でしょう。一つは、狼の群れに送り込まれる羊のたとえです。今一つは、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」という言葉です。
 もちろん、基本的な行動指針のようにして、何を語るべきかは与えられるから心配しなくてよい(19節)とか、逃げなさい(23節)とか、大切なことが幾つも語られているのですが、中でもこの二つが印象深い。ある大学の総長(キリスト者の方です)が、卒業式の言葉として、このことを語りました。すると、メディアは「自分たちが狼だというののか」と批判したそうです。ですが、わたしは、この総長の気持ちがよく分かります。二重規範を生きるならば別ですが(そしてそれはキリスト者として本来ありえないことですが)、私たちは教会へ来て(否、私たち自身がキリストのからだである教会として)、キリストをまねてキリストの後に従っていきます。それは、私たちの罪のゆえに小羊としてほふられたキリストにならうことです。だから私たちは、自分の欲望に忠実に人を利用する狼のようにではなくて、神に従う羊です。だから私たちをこの世界に遣わすにあたって、主イエスは、「それは狼の群れに…」と仰います。その通りなのです。だとしたら、私たちはこの世界でただ狼に食われてしまうのでしょうか。そうではありません。神が私たちを「蛇のように賢く、鳩のように素直に」してくださることに信頼してよいのです。主イエスがそうお命じになるのだから、主イエスがそうしてくださる、わたしたちはこの事実に信頼して、狼の群れとしかいいようのない(神を知らないとはそういうことでしょう)この世界の只中で、しかし守られて生きます。さあ今週も遣わされていきましょう。

2020年3月22日「平和を願う私たち」(マタイによる福音書10章1~15節)

 今日から10章になります。前回(9章の最後)は、橋渡しの箇所でもありました。最後に、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願う(祈る)べきことが語られていました。そう語られた主イエスは、働き手として用いるためなのでしょうか、十二人の弟子たちを使徒として選び、汚れた霊に対する権能をお授けになります。そしてこの十二人を派遣します。派遣されていく相手が、イスラエルに限定されていることは、カナンの女の記事の主イエスの発言(15章24節)ともよく合っています。主イエスは、まず、神の民イスラエルにこそ派遣されているのだと自覚していました。罪の故に、彼らが「失われた羊」であったからでしょう。彼ら弟子たちがなすべきことは、主イエスのなしてきたことです。7・8節です。主イエスから権能を授かって、主イエスのなさったことを行います。その際の注意事項、9・10節は、最初の弟子たちだけへの言葉なのか、それとも一般原則のようなものなのか、議論されます。
 今日はその次の、平和があるようにという挨拶に注目しましょう。11節以下です。シャーロームという挨拶の言葉は、今でも広く用いられています。しかしここでは挨拶以上の意味があるでしょう。この平和は、主イエスが共におられ、主イエスが造り、主イエスが保ち、主イエスが担って下さる平和です。この平和は、弟子たち(私たち)が造り出すものではなくて、神が与えるものです。だからこそ、受け入れる者たちにはその者を包み込むような大きな平和となり、受け入れない者は、足の埃を払い落として、救い・平和とは無関係であることを示します。受け入れなかった者は、受け入れなかったがゆえに、自分の責任においてソドムやゴモラよりも重い罰があります。私たちは、主イエスの平和を受け入れ、この平和を携えていきましょう。

2020年3月15日「収穫の主に」(マタイによる福音書9章35~38節)

 今日で9章が終ります。この箇所は8・9章の全体のまとめ、また10章への橋渡しの箇所です。最初の35節は、主イエスの活動の要所にマタイが書く言葉です(4章の最後参照)。そして主イエスが群衆を憐れまれる姿を描きます。[36節]この群衆がどんな人々であるかは、既にみてきました。主イエスに従順に従うような人々ではありません。「悪魔の頭」などと言い出さない分、ファリサイ派の人々よりはましかもしれませんが、無知と無理解の人々です。それでも主イエスは、見捨てるのではなくて、深く憐れみます。これは、「上から目線」などとは全く異なり、自分の内蔵が痛むほどに深く共感する、シンパシーをもつことです。当時の群衆は、植民地支配と頑な宗教的指導者層によって、飼い主のいない羊のようでした。更にもっと深い所で、神の民であるはずなのに、神から遠く離れてしまっていました。だから主イエスは、十二人を選び派遣するにあたってまず、仰います。[37節]収穫とは本来、終末の最後の審判を指し示しています。しかしここでは、そればかりではなく、私たちが自然にそう読みますように、伝道の成果、主イエスの福音を聞いて、神に立ち返って新しく歩みだす人々のことでしょう。「働き手が少ない」としたら、私たちはどうしたらよいのでしょう。私たち自身が働き手になることでしょうか。主イエスは弟子たちに仰います。[38節]せっかく収穫が多いのに働き手が少ないのだから、あなたがたが働き手になりなさいとは仰いません。働き手を送ってくださるように祈ることを求めておられます。
 最後に三つのことだけを確認して終りましょう。まず第一に私たちは、主イエスの眼差し、「収穫が多い」をきちんと共有しているでしょうか。この、主イエスの眼差しにおいて事実である、「収穫が多い」ことを私たち自身も共有してはじめて、収穫が多いことの喜びを生きることができます。第二に、自分の・私(たち)の伝道ではないこと。伝道の主体は三一なる神です。第三に、それゆえ私たちは、いつだってただキリストにのみ頼りますし、それで充分です。

2020年3月8日「驚嘆と頑なさ」(マタイによる福音書9章27~34節)

 次回で9章が終るのですけれども、次回の箇所は全体のまとめ、また10章への橋渡しの箇所ですから、主イエスの奇跡や癒しを中心とする行動は、今日の箇所で締めくくりとなります。前半では、二人の盲人が癒されています。【27~31節】ここには、典型的な癒しの様子が描かれております。「憐れんでください」という言葉や、口止め・メシアの秘密のモティーフ、それにも関わらず広がっていくことなどです。特に三つのことだけに注目すると、まず第一に、盲人の癒しは終末のしるしです。第二に、二人の盲人の「信仰」はいったいどういうものであるか、ここから私たちは信仰について学びうることがあるのか、です。単純で純朴な信仰、ややこしくて難しい理屈ではなくて、ただまっすぐに「主イエスにかける」信仰です。第三に、「ダビデの子」に今一度注目しましょう。
 後半は、【32~34節】。ここには、群衆の驚嘆とファリサイ派の人々の頑なさが描かれています。勿論、群衆の驚嘆・驚きが、直ちに信仰なのではありません。事実、主イエスの十字架の時には、群衆は扇動されてとはいえ、「十字架に掛けろ」と叫びます。しかし前回も見たような、「模範的」な信仰のファリサイ派の人々の頑なさは、大変なものです。12章のベルゼブル論争で扱いますが、このような「信仰」こそが、主イエスを十字架に殺すことになります。私たちは、キリストのからだなる教会として、まっすぐに主イエスに従っていきましょう。私たちの中にもある、救い主、主イエスを否定してでも守ろうとする「自分の信仰」と戦いながら。主イエスが、私たちも守り支え導いてくださるのですから。

2020年3月1日「十二年間も」(マタイによる福音書9章18~23節)

 前回は、なぜ主イエスとその弟子たちが断食をしないのかという問いに答えるものでした。婚宴のような場では断食をしません。主イエスという花婿がおられるので、私たちの群れは喜びの群れであって、断食はありません。
 しかしそれに続いて描かれるのは、二人(二組)の、喜びとはかけはなれた姿です。指導者ヤイロの娘、そして出血が続いている女です。実はこの記事は、全ての共観福音書にあるのですが、マタイはマルコを半分以下に短くしています。マタイ福音書記者が、大切だと思う部分を残して、大胆に短くしています。今日の箇所でポイントになるのは、「十二年間」でしょう。この女の子は、わずか十二年の間生きて、死にました。この出血の女は、十二年もの間、苦しみ続けました。そして主イエスと出会います。女の子は生き返ります。女は癒されます。私たちは、この二人のように、癒しと生き返る奇跡を知りません。新興宗教や一部のキリスト教のように、「癒し」を売りにしてはいません。恐らく、マタイ福音書が描かれた時代にも、既に奇跡の時代は過去のものになっていたことでしょう。それなのになぜ、マタイ福音書記者は、この出来事を描いたのでしょうか。単に「昔はよかった」と主イエスが人間として生きておられた時代を懐かしんだのでしょうか。断じてそんなことはありません。マタイの時代の教会にも、そして私たちの現代にあっても、この記事は、希望の記事です。私たちの祈りは、「叶う」という仕方で聞かれることもあります。しかしまた「叶わない」という仕方で聞かれることもあります。「叶う」か「叶わない」かが大切なのではありません。【22節】指導者の娘のもとへ急ぐ主イエス(とその一行)です。通りすぎても良かったのです。しかし、この女が癒されることよりももっと大切なこと、振り向いて見つめ、声を掛けることを主イエスはしておられます。今も私たちと共におられ、振り向いてくださる主イエスと共に生きましょう。

2020年2月23日「新しい革袋に」(マタイによる福音書9章14~17節)

 前回、主イエスは弟子たちばかりでなく、罪人や徴税人と共に食事をしていました。そして、ファリサイ派の人々の疑問に答える仕方で、自分が誰を招くために来たのか、語られました。今日の聖書箇所最初の「そのころ(そのとき)」は、この食事の席のことでしょう。そして食事の席だからこそ、断食が問題になるのです。14節。山上の説教で学びましたように、当時のユダヤにおいては、施し、祈り、断食の三つが、徳と考えられていました。ファリサイ派や洗礼者ヨハネのグループが断食をしているのに対して、なぜ主イエスとその弟子たちは断食しないのだろう。当然の疑問でしょう。主イエスは答えます、15節。断食をしないのは、祭りや祝いの時です。日常的には安息日です。婚礼の祝いの宴の時には、断食しません。主イエスが共におられるのは、婚礼の宴です。だから、断食をしません。奪い去られるには、十字架と昇天の二つの解釈があります。しかしマタイの最も大切な基本的なメッセージは、「主が共におられる」ですから、十字架でしょう。勿論私たちは、自由ですから、断食をする自由もありますが、基本的には、主イエスが共におられるので、必要ありません。
 更に主イエスは、二つのたとえを語られます。継ぎ当てと革袋・ぶどう酒のたとえです。16・17節。主イエスが来てくださり、今も共にいてくださることは、決定的に新しいことがはじまったのです。だから、以前と同じではだめです。新しい革袋が必要です。教会は、この意味で常に新しい(ニューではなくて、フレッシュ)。私たちの信仰は本当に常に新しいものになっているでしょうか。更に、教会はそのような新しい信仰を入れる革袋として新しいでしょうか。このことが問われています。

2020年2月16日「罪人を招くために」(マタイによる福音書9章9~13節)

 前回は、中風の人の記事を通して、罪を赦す権威をみました。主イエスはその場所をたち、マタイに声を掛けます。9節。マルコやルカでは、レビです。なぜ名前が異なるのでしょうか。二つの可能性(二つの名前の同一人物、出来事が別々にあった)は蓋然性が低いといわれます。マタイ福音書記者が、名前を変えたと考えるのが自然です。ではなぜ変えたのでしょう。これも幾つかの可能性がありますが、蓋然性が高いのは、十二使徒の一人と同定したかったというものです。かつて、このマタイが、マタイ福音書記者だと考えられていました(ギリシャ語の前に、アラム語のマタイ福音書があったのだという説も含めて)。現代では、様々な理由からその可能性は低いと考えられています。しかしこの徴税人マタイ(あまり地位は高くないと思われる)も、マタイ福音書記者も、そして私たちにも共通しているのは、主イエスに「わたしに従いなさい」と命じられて、立ち上がって従ったことです。声を掛けられてから実際に従うまでの時間や経緯は様々ですが、主イエスが主導権をもってまず声を掛けてくださり、声を掛けて頂いた私たちが従うのは、今も昔も変わりません。
 次は、食事を共にしていた時のファリサイ派の人々です。10・11節。同席しないことが、「けがれ」が移らないために基本的なことでした。声を掛けられたのは弟子たちですが、主イエスが答えます。12・13節。もしもいけにえを第一とするならば、ファリサイ派の人々のように、自分たちの「清さ」のために分け隔てすることになるでしょう。しかし主イエスは、「憐れみ」を第一とします。神が求めるのは何よりもまず、憐れみだからです(ホセア書)。そして正しい人ではなくて、罪人を招くために自分は来たのだと仰います。罪の根底にあるのは、神を否定・拒否することですが、その一つの変化形として、神の前に自分たちだけが正しくあろうとする行為(ファリサイ派の人々のように)があります。まず大切なことは、自分が主イエスの憐れみを必要とする罪人であると気が付くことです。そして私たちを招くために、主イエスは十字架に掛かられました。