これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年5月3日「洗礼者ヨハネを語る①」(マタイによる福音書11章7~14節)

 先週、主イエスのもとに洗礼者ヨハネの弟子たちが「来るべき方は、あなたでしょうか」と尋ねにきました。前回、彼らに対する主イエスの答えがありました。今日はヨハネの弟子たちが帰った後で、主イエスが群衆に語った言葉の前半です。多くの人々が、悔い改めを勧めるヨハネのもとを訪れました。ヨハネは預言者以上の者だと主イエスは仰います。7~9節です。主イエスはヨハネをとても高く評価いたします。10~11節前半。人間は皆、女から生まれるのですから、ヨハネこそ最も偉大な者だというのです。
 ただしそこには、たった一つの留保があります。11節後半です。私達は皆、この地上で最も偉大な者であるヨハネよりも更に偉大な者として、天の国(天国、神の支配)に迎え入れられることが、主イエスによって約束されています。これは読み過ごすことのできない、大変なことです。次の12節は、二つの読み方があります。一つは、この翻訳の解釈で、不法な者どもが(ヨハネが来たからこそ現れはじめた)神の支配を奪おうと、神の支配に力ずくで襲いかかっているというものです。いま一つは、逆に神の国こそが、洗礼者ヨハネの時から、この私達の世界に襲いかかるようにしてやってきているという解釈です。後者の方が、13節の、旧約聖書(預言者と律法)の時代は終ったという言葉には適合するでしょう。そして、(私達も既に共通の認識として知っている)ヨハネこそ、エリヤだという言葉です(14節)。
 次回、後半をみますが、今日の箇所から、主イエスがヨハネをいかに高く、正しく評価しておられるかが分かります。そしてまた、私達は、神の国に迎え入れられるならば、このヨハネよりも更に大きな(偉大な)者として、主イエスに迎えられます。

2020年4月26日「来るべき方」(マタイによる福音書11章2~6節)

 先週主イエスは、弟子たちを派遣するにあたっての言葉を終えられました。今日は新しい展開、洗礼者ヨハネです。ヨハネが自分の弟子たちを獄中から主イエスのもとに派遣します。2・3節です。なぜ主イエスが洗礼を授けて欲しいと願った時には、「私にはその靴紐をほどく値打ちさえない」と言ったヨハネ、私よりも後に来る方、主イエスについて預言したヨハネが弟子たちを派遣するのでしょう。そこにあるのは、「本当にメシアはこの方でよいのか」という疑問です。ヨハネが期待していたのは、自分よりも激しく「最後の裁き」を語るメシアでした。「消えることのない火で焼き払われる」方でした。ところが、獄中にいるヨハネに聞こえてくる主イエスの評判は、それとは異なるものでした。多くの人をいやし、貧しい者達に福音を語る方でした。主イエスのヨハネの弟子達への答えがそれを示しています。4・5節です。ヨハネの抱いていたメシア像と、実際の主イエスの違い・ずれ・相違を感じ、疑問に思いました。これはヨハネだけの問題ではなくて、当時の多くのユダヤ人が犯した過ちです。実際、主イエスを「十字架につけろ」と叫んだ人々は、メシアに植民地をはじめ、様々な抑圧や不正義からの解放を求めていました。しかしそのような彼らのメシア像と、実際の主イエスが全く異なるので、つまずいたのです。現代においても、そういう実際の主イエスを受け入れないで、自分のメシア像に固執する方々はおられます。そういう方々は、自分のメシア像が変わり、自分自身が変わることを拒否します。だから決して真実の主イエスを知ることができません。最後の6節です。私達はいつも、自分が抱くメシア像に固執しないで、変革され続けることに開かれていたいと願います。そしてそれは、ただ、三位一体の神への信頼の中でだけできることです。

2020年4月19日「受け入れる人の報い」(マタイによる福音書10章40~11章1節)

 先週私達はイースターにあたって、命を得る生き方について学びました。今日はその続きとして、そのような生き方をする私達を受け入れる人の報いについてです。そしてまた、主イエスが十二人の弟子たちを送るにあたっての言葉の締めくくりでもあります。
 まず、40節です。ここでは大変なことが言われているのではないでしょうか。弟子達(私達)を受け入れる人は、主イエスを受け入れることになります。そして主イエスを受け入れる人は、主イエスを遣わされる神を受け入れることになります。しかもそれは同じ報いです(41節)。預言者とは、旧約聖書の預言者ともとれます。が、ここでは神の言葉を取り次ぐ者のことでしょう。説教者に限るものではなくて、私達プロテスタントは万人祭司ですから、皆さんがみな、です。更に、正しい者は、「正しい者は一人もいない(パウロ、ローマの信徒への手紙)」のですから、神抜きでその方自体として正しいという意味ではなくて、主イエスにまっすぐに従うという意味でしょう。
 しかもこの「受け入れる」の意味は、主イエスの弟子・教会・キリスト者になることではなくて、「はっきり言っておく」という、大切なことを語る時の、主イエスの決まり文句を用いて、「冷たい水一杯」でももてなすことです。42節です。これは前回の「永遠の命」へ向かって生きる私達の現実と照らし合わせた時に、たった水一杯(これには二通りの読み方がある)でも、永遠の命をいただけるということです。このとき、私達は、「小さな者」に過ぎないにもかかわらず、何と大きな者として神から高く遇していただいていることでしょうか。
 最後の1節は、弟子たちに対して派遣の説教を語られた主イエスが、しかしご自身で宣教されたという記述です。それは今も同じです。私達を遣わす主イエスは、私達の先頭に立って宣教しておられます。

2020年4月12日「命を得る生き方」(マタイによる福音書10章34~39節)

 イースターおめでとうございます。
 現在私達は、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉をみています。前回は、ただ神のみを恐れることが教えられていました。そこでは、神以外の全てを恐れない生き方があります。
 今日はその続きとして、命を得る生き方が示されています。39節です。大変厳しい言葉です。「そんなに無理なことが求められるならば、キリスト者として教会に連なるのはやめておいた方がよい」、そんな感想が聞こえてきそうです。今日の主イエスの語られる言葉にそって、どういう意味なのか、命を得る生き方とは何なのか、みていきましょう。
 まず主イエスが仰るのは、自分は平和をもたらすためではなくて、剣をもたらすために来たということです。34~36節です。この剣は、どんな剣でしょう。人々を裁いて地獄へ送る剣ではありません(そう捉えるならば、キリスト者の傲慢が起こるでしょう)。主イエスご自身が刺し貫かれた剣、十字架という剣です。私達が真剣に主イエスの後に従って生きるならば、主イエスへの愛に生きるならば、私達もまた刺し貫かれるかもしれない剣です。
 だから「ふさわしさ」ということが言われます。37・38節です。私達は、自分の十字架を担って主イエスに従うことができるでしょうか。そのようにして、自分の命を得る生き方を形作ることができるでしょうか。それが本来私達には無理であったからこそ、主イエスは十字架に死ななければなりませんでした。弟子たちは、誰一人として、逮捕される主イエスに従うことはできないで逃げ出しました。そしてそのようにして殺された主イエスを神は、復活せしめられました。この主の復活があるからこそ、逃げ出した弟子たちは、もはや逃げるのではなくて、たとえ殺されても主イエスに従っていくことができました。私達もそうです。本来の私達は、自分の罪のゆえに主イエスを十字架に殺すことしかできません。しかし今日イースターにおいて、特に年に一度覚えますように、主イエスが復活させられたから、私達は命を得る生き方が可能になります。自分の十字架を担って主イエスに従っていくことができます。(今回からフェイスブックによる礼拝の配信をはじめました。関心のある方はどうぞ)

2020年4月5日「何を恐れるべきか」(マタイによる福音書10章24~33節)

 現在私達は、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉をみています。前回は、狼の群れに送り込まれる羊のように、迫害があるのだという箇所でした。その迫害の現実の中で、最初の24・25節では、主イエスをベルゼブルというような人々は、弟子たち、教会、私達をもひどい扱いをすると。その時に、弟子たち・私達は、主イエスを越えて勝っている必要はありません。主イエスと同じようであれば、充分です。次に主イエスが仰るのは、「恐れるな」(26、28、31節)です。迫害されるならば、迫害する者を恐れるのは、自然な当然のことでしょう。しかし主イエスは、「恐れるな」と仰います。なぜならば、本来恐るべき方である神を恐れる時に、私達はそれ以外の何者も恐れる必要がなく、また事実恐れなくなるからです。新型コロナの関係で、「正しく恐れましょう」と言われます。しかしそもそも恐れることそのものが間違いです。命に関わること(しかも自分の命だけではなくて、無自覚に移せば他者の命をも)ですから、可能な限り注意することは必要かもしれません。しかしそれは、「恐れ」からではないはずです。私達キリスト者の生きる規範としての、「恐れではなくて愛」を今一度振り返りましょう。しかしそうは言っても、恐れてしまうのが私達人間存在の本性でもあります。だから、29~31節です。神は、それほどまでに、私達を知っていて私達を愛して下さっている。この事実にしっかりと立つ時に、私達は恐れを捨て去って、どのような状況にあろうとも、安心して、平安・平和を生きることができます。そのように恐れがなくなるので、人々の前で、主イエスの仲間だと言い表す(信仰告白する)のです。

2020年3月29日「狼の群れの中で」(マタイによる福音書5章

 前回から10章に入りました。今日は、前回の続き、主イエスが十二人の弟子たちを派遣するにあたっての言葉です。特に印象深いのは、最初の16節でしょう。一つは、狼の群れに送り込まれる羊のたとえです。今一つは、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」という言葉です。
 もちろん、基本的な行動指針のようにして、何を語るべきかは与えられるから心配しなくてよい(19節)とか、逃げなさい(23節)とか、大切なことが幾つも語られているのですが、中でもこの二つが印象深い。ある大学の総長(キリスト者の方です)が、卒業式の言葉として、このことを語りました。すると、メディアは「自分たちが狼だというののか」と批判したそうです。ですが、わたしは、この総長の気持ちがよく分かります。二重規範を生きるならば別ですが(そしてそれはキリスト者として本来ありえないことですが)、私たちは教会へ来て(否、私たち自身がキリストのからだである教会として)、キリストをまねてキリストの後に従っていきます。それは、私たちの罪のゆえに小羊としてほふられたキリストにならうことです。だから私たちは、自分の欲望に忠実に人を利用する狼のようにではなくて、神に従う羊です。だから私たちをこの世界に遣わすにあたって、主イエスは、「それは狼の群れに…」と仰います。その通りなのです。だとしたら、私たちはこの世界でただ狼に食われてしまうのでしょうか。そうではありません。神が私たちを「蛇のように賢く、鳩のように素直に」してくださることに信頼してよいのです。主イエスがそうお命じになるのだから、主イエスがそうしてくださる、わたしたちはこの事実に信頼して、狼の群れとしかいいようのない(神を知らないとはそういうことでしょう)この世界の只中で、しかし守られて生きます。さあ今週も遣わされていきましょう。

2020年3月22日「平和を願う私たち」(マタイによる福音書10章1~15節)

 今日から10章になります。前回(9章の最後)は、橋渡しの箇所でもありました。最後に、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願う(祈る)べきことが語られていました。そう語られた主イエスは、働き手として用いるためなのでしょうか、十二人の弟子たちを使徒として選び、汚れた霊に対する権能をお授けになります。そしてこの十二人を派遣します。派遣されていく相手が、イスラエルに限定されていることは、カナンの女の記事の主イエスの発言(15章24節)ともよく合っています。主イエスは、まず、神の民イスラエルにこそ派遣されているのだと自覚していました。罪の故に、彼らが「失われた羊」であったからでしょう。彼ら弟子たちがなすべきことは、主イエスのなしてきたことです。7・8節です。主イエスから権能を授かって、主イエスのなさったことを行います。その際の注意事項、9・10節は、最初の弟子たちだけへの言葉なのか、それとも一般原則のようなものなのか、議論されます。
 今日はその次の、平和があるようにという挨拶に注目しましょう。11節以下です。シャーロームという挨拶の言葉は、今でも広く用いられています。しかしここでは挨拶以上の意味があるでしょう。この平和は、主イエスが共におられ、主イエスが造り、主イエスが保ち、主イエスが担って下さる平和です。この平和は、弟子たち(私たち)が造り出すものではなくて、神が与えるものです。だからこそ、受け入れる者たちにはその者を包み込むような大きな平和となり、受け入れない者は、足の埃を払い落として、救い・平和とは無関係であることを示します。受け入れなかった者は、受け入れなかったがゆえに、自分の責任においてソドムやゴモラよりも重い罰があります。私たちは、主イエスの平和を受け入れ、この平和を携えていきましょう。