これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2020年10月11日「しるしを欲しがる罪」(マタイによる福音書16章1~12)

 福音書の頂点・分水嶺は、この16章のペトロの告白、そして次章の山上の変貌です。ここから先は、十字架へ向けて一直線に進んでいきます。その前に・今日の箇所に、既にユダヤの(宗教)指導者たちと主イエスの対立が激しく描き出されています。
 まず彼らの願いです。1節です。まず第一に、普段は対立しているファリサイ派サドカイ派が手を結んでいます。第二に、「試そうとして」に注目しましょう。この言葉が以前に使われていたのは、4章の悪魔の誘惑の箇所です。荒れ野では悪魔が直接誘惑しました。しかし今日の箇所では、既にある「しるし」を見ようとしない人々を用いて、悪魔は誘惑します。そして第三に、「天からのしるしを見せてほしい」と願う罪です。
 なぜしるしを欲しがることが罪なのか、次の主イエスの言葉から分かります。2・3節です。空模様を見分けるように、時代のしるしである主イエスがおられるのに見ようとしない、ここに罪があります。
 そこには三つの罪の要素があります。まず第一に見ようとしない鈍さの罪です。第二に、自分が判断する・裁く座(神の座)につこうとする傲慢の罪です。そして第三に、神の子を(鈍さのゆえに気づかず、自分たちの傲慢さのゆえに主イエスより自分たちを上において)試す罪です。そのとき彼らは悪魔の手先に成り果ててしまいます。
 それは弟子たちには関係のない、人ごとだというのではありません。5節以下です。主イエスの6節の言葉をパンそのもののことを語っているのだという、鈍さからくる誤解があります。給食の奇跡を目の当たりにしていながら未だに分かりません。最後の箇所に至ってやっと、悟ります。私達もまた、私達の愚かさ・鈍さによって、神の言葉、主イエス・キリストご自身というしるしを見ないことにならないように気を付けましょう。

2020年10月4日「主は憐れむ」(マタイによる福音書15章29~39節)

 前回の箇所、カナンの女の信仰の箇所とは異なり、今日の聖書箇所には目新しいことは何もありません。前半は、主イエスの癒しの(纏めの)記事です。後半は、前の章にありました五千人の給食とよく似ています。今日は三つのことだけをみてみましょう。
 まず第一に、前回の箇所と関連して、群衆が誰なのか、です。マタイはユダヤキリスト者を強く意識して書いています。だから、明確には書きませんが、異邦人です。弟子たちの態度や場所のこと、そして群衆の様子から推測できます。つまり主イエスは、カナンの女との出会いを通じて、憐れみ・愛をイスラエルだけではなくて、異邦人にも広げました。
 次に繰り返すことの意味です。主イエスは、倦むことなく憐れみます。私達の愛も、私達の弱さや罪のゆえに、主イエスと同じようにはできないとしても、それを目指します。愛において大切なことは、諦めないことです。まるで砂漠に水を撒くようにむなしいことに思えても、主が神が働いておられることを信じて続けることが大切です。私達の礼拝もキリスト者としての生活も、ある意味では、ひたすら繰り返すことです。この講壇から語られる説教も、本質的には同じことを繰り返し語っているだけです。しかし私達の頑なさ・忘れっぽさ・罪の深さのゆえにこれはどうしても必要なことです。
 そして最後に、主イエスは私達への愛の極限において、十字架に死んで下さいました。私達の信仰には、繰り返すこと、諦めないことの中で、敵のために死ぬことをも厭わない覚悟が求められています。それは「自分の力」では決してできませんが、ただ神がさせて下さいます。

2020年9月27日「食卓から落ちるパン屑」(マタイによる福音書15章21~28節)

 一般に福音書の頂点・中心は、もう少し先です。ペトロの信仰告白や山上の変貌の記事です。しかし私は、それ以前、今日の箇所にこそ決定的な出来事が起こっているのだと思います。この箇所に出てくるのは、主イエスとカナンの女と弟子たちです。弟子たちは脇役でしょう(23節後半)。カナンの女に注目するならば、極端なまでのまっすぐな信仰です。主イエスは、この女の信仰を「立派だ(大きい)」(28節)と評価なさいます。衣の裾に触れた出血の女の場合など、主イエスは一途な信仰を評価して下さいます。湖の上を歩く主イエスの、ペトロに対する言葉、「信仰の薄い(小さい)者よ」(14章31節)との対比が目立ちます。
 しかし今日は、主イエスの態度の変化に注目しましょう。最初、女が叫びんでも、主イエスは何もお答えになりません。そして弟子たちに促されてはじめて、仰います。24節です。更に女が食い下がると(25節)、26節のようにお答えになります。24節や26節の主イエスの言葉には、あまりにも冷たい響きがあるのではないでしょうか。そこにあるのは、主イエスが「イスラエルの家の失われた羊」(イスラエル全体か一部か議論の分かれる所ですが)にのみ遣わされているのだという自覚です。私達異邦人も含めてすべての人間に遣わされているという自覚ではないのです。このカナンの女との出会いによってはじめて、主イエスは私達への使命を自覚なさいます。[ギリシャ哲学の真理とヘブライ文学の真理について。神の名、あってある者について。〕主イエスは、神でありながら、人との出会いを通して変わられます。信仰者として、私達も変わらない頑なな信仰ではなくて、主イエスと共に生きる柔らかい信仰を生きましょう。

2020年9月20日「人をけがすもの」(マタイによる福音書15章10~20節)

 今日の箇所は、前回の箇所と合わせて一まとまりです。きっかけは、ファリサイ派の人々と律法学者たちの問いでした。前回の箇所では、父と母とを敬えという戒めがないがしろにされている、そこに昔の人の言い伝え(あなたがた自身の言い伝え)の最大の問題がある、そう主イエスが指摘なさる箇所でした。
 彼らの問いに対する答えとしては、今日の箇所の方がはっきりと応えています。10・11節です。当時汚れは、外から人間の中に入ってくるものだという認識が普通・常識でした。今でも多くの宗教でそういう考え方があります。それに対して主イエスは、この常識を完全にひっくり返します。主イエスのこの言明に対して、理解できない弟子たちが説明を求め(15節)、主イエスは答えます。最後の17~20節です。心から出てくる悪い行いが、人を汚します。人の心にこそ、汚れ・悪・罪はあります。ここが分からないと、外から汚れが移ると思い込み、これを防ぐことに必死になります。この根本的な思い違いを主イエスは指摘します。このような思い違いの果てにあるのが、ファリサイ派の人々の姿です。12~14節です。これはとても厳しい裁きの言葉ですが、私達教会も無関係ではありません。真面目で真剣であるからこそ、かかってしまう「正義病」では、この裁きに値するような罪がすぐに起こってしまいます。では私達はどうしたらよいのでしょう。何よりもまず、汚れが実は外から来るのではなくて、自分の心からこそ来ることを自覚することが大切です。そしてそのような私達のために、神が主イエスをこの世界に派遣して下さり、私達の汚れを清めるために決定的な奇跡の業、十字架をなしてくださった、私達が間違って驕り高ぶってしまいそうになるとき、いつもこの原点に立ち返りましょう。

2020年9月13日「神の言葉を無にする罪」(マタイによる福音書15章1~9節)

 今日の箇所は、次回の箇所と合わせて一まとまりです。今回は、一度に語るのは無理だと感じました。前半を今日、後半を次回みてみます。きっかけは、ファリサイ派の人々と律法学者たちがやってきて、問います。1・2節です。ポイントは、「エルサレムから」です。主イエスが主に活動なさったのはガリラヤですから、都エルサレムから来るというのは、大変なことです。食事の前に手を洗うのは、私達のように衛生的な意味(コロナ対策など)ではありません。宗教的な意味です。昔の人の言い伝え(主イエスは自分の言い伝えと言い換えている、3、6節)とは、神の掟・律法を守るために必要だと考えられた細かい規定です。その中に、異邦人と触れている可能性を考えて手を洗って(しかもかなり細かく具体的な方法も定められていた)けがれを落とします。このこと自体については,次回の箇所になります。
 まず主イエスは、コルバンを用いて、彼らが、言い伝えを用いてどれほど神の言葉、律法から離れてしまっているかを指摘します。3~6節です。敬うとは、決して精神的な意味だけではありません。経済的な必要を満たすことも含まれています。それなのに、神への供え物だといえば、この義務を免除されるという言い伝えがあります。確かに、人への義務よりも神への義務のほうが優先されます。しかしそれが、言い訳になってしまい、経済的に両親を養わない根拠にされてしまいます。それを主イエスは、神の言葉を無にする罪だと指摘なさいます。それはまさに、イザヤが預言したように、偽善者のすることです。7~9節です。しかし私達は、神の言葉を無にすることなどできるでしょうか。神の言葉は、一度神が発せられたならば、むなしく消えていくことはありません。この箇所の「無にする」とは、本来私達の生きる指針となるはずの神の言葉が、私達人間の罪によって無視されることです。ファリサイ派の人々と律法学者のことだから、私達には無関係だ、などとはいえません。自分がどれほど神の言葉を無にする罪を犯しているかの自覚がないところでは、それこそ、神の言葉を無視し続けることになります。しかしそんな私達を救うために、主イエスは十字架に死んで下さった。この事実にしっかりと立つ時に、私達はこの罪から離れて生き始めることができます。

2020年9月6日「信仰の薄い者よ」(マタイによる福音書14章22~36節)

 今日は、五千人の給食の直後の記事です。主イエスは弟子たちを船出させます。22・23節です。「強いて」とあります。弟子たちの中には何人も漁師の人がいますから、湖の様子から船を出したくなかったかもしれません。しかし主イエスは彼らを行かせます。そして主イエスご自身は、一人だけで祈ります。一人で祈ることは大切です。父なる神と深い繋がりのある主イエスでさえそうですから、私達は尚更でしょう。逆風、波に悩む弟子たちに、夜明け頃主イエスは現れて、声を掛けます。24~27節です。ここまでもその先も、物語自体には分かりづらい所はありません。幽霊だと間違えるのも、恐怖のあまり叫び声をあげるのも無理からぬことでしょう。主イエスの神顕現の言葉もこの箇所にふさわしく、弟子たちを安心させたことでしょう。
 後半はペトロの申し出からはじまります。28節です。この申し出を主イエスが受け入れ、ペトロもまた湖の上を歩きます。29節です。しかしペトロは、怖くなって沈みかけます。30節です。主イエスはペトロを助けます。このときの主イエスの呼びかけ、「信仰の薄い者よ」を今回は説教題にしました。「薄い」は「小さい」です。ペトロのことから分かるように、私達の信仰が小さくても、その小ささの只中で主イエスに助けを求めて呼びかけるならば、主イエスは応えて助けてくださる。私達教会の歩みは常にそのようなものなのではないでしょうか。自分が沈みかけていることにさえ気が付かない不信仰(信仰がない状態)ではなくて、どんなに小さくてもよい(からし種一粒の信仰があれば山も動くのですから、私達の信仰はからし種一粒にも満たない小さなものです)、主イエスから与えられた信仰を生きましょう。

2020年8月30日「ヨハネの死と給食」(マタイによる福音書14章1~21節)

 今日も前回同様、二つの部分をまとめて読みます。その対比をきちんと捉えるためです。時間的な流れから言いますと、一つ目の記事と二つ目の記事は繋がっていません。1・2節から、ヘロデが洗礼者ヨハネを以前に殺していて、そのヨハネが「生き返った」方として、ヘロデはイエスをみました。しかし二つの記事にははっきりとした共通点があり、それだからこそ、対比が際立っています。
 類似しているのは、どちらも食事の席だということです。ヘロデは自分の誕生日の祝いの席です。そこで、「願うものは何でもやろう」(7節)と誓って約束します。サロメに対して、約束します(サロメという名前はどこにもでてきませんが…)。それ自体既に、驕り高ぶっている、罪を犯しています。そして王としての威厳を保つために、ヨハネを殺すという更に大きな罪を犯します。一つ目の記事の食卓は、罪の食卓です。二つ目の給食の記事(13節以下)も食卓です。しかしそれは、五千人(女子どもを入れたらもっと大勢)という大勢でありながら、パンと魚だけ(しかも神が奇跡をなさる前には、たった五つのパンと二匹の魚だけ)という貧しいものです。領主の祝いの席と野外での給食と、その豊かさにおいては雲泥の差があります。
 しかし決定的に異なるのは、領主の食卓・宴席が罪の象徴であるのに対して、五千人の給食は、神の恵みの象徴です。私達は、今のこの豊かな社会の中で、ヘロデの宴席をしてしまってはいないでしょうか。感謝と喜びをもって、たとえ貧しくても、本当は、神の国の宴席の先触れとしての豊かさのある、主イエスの食卓につく者でありましょう。