これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年2月28日「実を結ぼう」(マタイによる福音書21章18~22節)

 今日の聖書箇所はマタイではエルサレム入城の翌日、月曜日のことです。この出来事は、福音書の中でも特に難しく分かりにくい出来事だといえるでしょう。といいますのも、この奇跡だけが唯一、否定的な奇跡だからです。18・19節です。「空腹を覚えられた」は、「飢えた」という強い言葉が使われています。小腹が空いたという程度のことではありません。しかしそれでも、あまりにも自分勝手なのではないでしょうか。他の福音書によれば(そして事実、過越の祭の頃はまだいちじくの季節ではありません)、いちじくの季節ではなかったからと解説しています。なぜ主イエスは呪いのような言葉をこのいちじくの木にかけたのでしょうか。
 昔からされてきた説明は、このいちじくがイスラエルエルサレム、神の都)を象徴しているというものです。葉はあるけれども実がない。それは、一見繁栄しているようにみえても中身がないという意味です。ただしナチスホロコースト以来、そのような見方は、反ユダヤ主義的ではないかということで、あまりされなくなりました。
 むしろ現代においては、私達自身が見せ掛けだけで、実がないならば、それは枯れる(地獄に落ちる)のだと示しています。ではどうしたら良いのでしょうか。この後の弟子たちと主イエスの対話にヒントがあります。20~22節です。「信じて祈る、疑わない」ことの大切さが語られています。私達がいちじくの木に照らしてどうかといえば、私達もまた実のないいちじくにすぎません。しかし、神との祈りの対話において、実を結ばせて頂くのです。それは偽善的な、葉ばかりが生い茂るような見せ掛けのものではありません。信実な祈りにおいて、私達自身が変えられることです。

2021年2月21日「祈りの家と」(マタイによる福音書21章12~17節)

 前回はエルサレム入城でした。入城して、主イエスはまず何をしたのでしょうか。12・13節です。いわゆる宮清めです。柔和な方である主イエスが、ほぼこの箇所でだけは、とても厳しく激しいのです。そこでこの箇所は、暴力的で過激なことをよしとなさる方々からは、「主イエスもまた時と場合によっては暴力を認めるのだ」という論拠として用いられてきました。しかし果たしてそうなのでしょうか。この箇所で確かに主イエスは、売り買いをしていた人々を追い出し、台や腰掛けを倒されます。しかし人間は誰一人傷つけていません。人が人を傷つけることは、父なる神の御心ではないからでしょう。どんなに正しい主張でも、方法を間違えれば悪になってしまいます。
 ここで主イエスが語っておられるのは、神の家であり主イエスの家である神殿は、祈りの家なのだ(イザヤ書56章7節)ということです。強盗の巣というのは、神殿での出来事もまた、経済活動としての側面をもっており、許認可など様々な仕方で、金儲けがあったのだということです。それに対して主イエスは、真っ向から異議を唱えます。そして大変興味深いのは、ここで主イエスがしておられることです。14節です。ダビデ以来、このような人々は神殿に入ることさえ認められていませんでした。しかし主イエスの宮清めのごたごたに乗じたのでしょうか、主イエスの傍にやってきて、そして主イエスは癒します。ここでも主イエスは、神殿の内と外、境内の内と外の境を破ります。
 それと正反対なのが、宗教的指導者たちです。15、16節前半です。彼らの関心は、自分たちの既得権であり権威です。もはやエルサレムに入城なさったので、メシアの秘密のモティーフは無用です。彼らに答えます。16節後半、17節です。これは、王をほめたたえる「ホサナ、讃美」です。わたしたちは、主イエスと神とをほめたたえるからこそ、この世界のあらゆる不正にも正しく拒否していきましょう。

2021年2月14日「エルサレム入城」(マタイによる福音書21章1~11節)

 今日はいよいよエルサレム入城です。私たちは講解説教ですが、教会歴に従って聖書箇所を決める教会では、この記事は年に二回読まれる可能性があります。一つは棕櫚の主日であり、いま一つは待降節第一主日(教会の暦の上で一年の最初の日)です。今週の水曜日が灰の水曜日で、受難節になります。本当はせめて、受難節になってから読みたかったのですが、灰の水曜日に備えて、この記事を読みましょう。
 今日は三つのことだけに注目したいと思います。まず第一にろばの話です。マタイでは、母ろばと子ろばになっています。これは、主イエスエルサレム入城が旧約聖書の預言する通りであったことをより明確に表現するためでしょう。そしてそれよりも大切なことは、「王」に相応しい強くて立派な馬ではなくて、聖書の預言の通りにろばであったことです。これはこの世界の多くの王と異なり、主イエスは柔和な方だということを示しています。
 そして二番目に注目したいことは、群衆です。私たちは、この群衆が、宗教的指導者たちに煽動されて「十字架につけろ」と叫ぶことを知っています。服や枝を敷いてお迎えするのは、まさに王を迎えることです。群衆には大きな誤解(主イエスがローマの植民地支配からイスラエル・神の民を解放する)に基づく、大きな期待がありました。その期待が主イエスの逮捕によって裏切られたと感じたからこそ、「十字架につけろ」になったのです。
 そして第三に・最後に、このような無理解の群衆の(一人ひとりの)ために、主イエスは十字架への道を進まれるのだということです。私たちは、今は二千年経ってこの群衆と同じ誤解や期待の中にはありません。しかし私たちもまた、私たち自身の自分勝手な期待で、主イエスを捉えようとしてはいないでしょうか。私たちに求められているのは、自分の身勝手なキリスト期待に抗って、主イエスを真実の王として受け入れ、この王に仕える日々を形作っていくことではないでしょうか。

2021年2月7日「何をしてほしいのか」(マタイによる福音書20章29~34節)

 次回はいよいよエルサレム入城です。エルサレム入城の前には、多少の違いはあるものの、共観福音書では全て、盲人の癒しがあります。終末の先取りの意味です。マタイではまず、エリコが描かれます。エルサレムの直前、最後の宿です。29節です。大勢の群衆とは、入城の際の一つの背景です。ここに現れるのが二人の盲人です。30・31節です。叱りつけられても、諦めないで更に叫ぶ、ここに諦めない信仰の模範を読み取ることもできるでしょう。
 次に、32・33節です。ここで注目すべきことは、主イエスが「何をしてほしいのか」とたずねておられることです。エルサレムへ向けて、主イエスは急いでいたはずですから、さっと癒してそこを後にしても良かったでしょう。しかし、わざわざたずねます。これは、21節と同じ言葉が使われています。盲人の二人ですから、目を開けてほしいのだということは、聞くまでもなく分かるでしょう。しかしあえてたずねることで、二人の盲人は、今一度自分たちの願いが何であるか、自問自答することとなります。それは前回の箇所で、よく分かっていないのに、玉座の左右を願ったのと、対照的です。主イエスが傍らを通り過ぎる(この通り過ぎるというのは、旧約聖書で神顕現)ときに、私たちは何を願うのでしょうか。この盲人たちが、肉体の目が開かれることを願ったように、私たちの心の目・信仰の目が開かれるように願うのでしょうか。それとも、前回の弟子たち(の母親)が願ったように的外れなことを願うのでしょうか。
 人生の様々な場面で、私たちは様々な願いをもつものです。しかしその願いは、本当に神の御心に適った願い、救い・永遠の命・天の国への願いであるかどうか吟味する必要があるでしょう。

2021年1月31日「仕えるためにこそ」(マタイによる福音書20章17~28節)

 前回、ぶどう園の労働者の天の国の例えを通して、私たちが信仰者・キリスト者として生きることを今一度省みる機会を与えられました。それに続いて今日の箇所では、三度目の死と復活の予告です。この予告の度に私たちが注目したいことは、ここに(受難だけではなくて)復活の予告があるのだということです。更に、三度目の・今日の予告では、十字架がはっきり語られています。しかし弟子たちは、主イエスの逮捕の時には全員逃げ出します。また、主イエスが復活もまた予告しておられたことは、後になって、そういえば、と、思い出します。
 ですから次の段落で、ヤコブヨハネの母が願い出る時には、三度目の予告自体が十二人の弟子だけを呼び寄せて語られましたし、二人の母は予告のことが分かっていないで、エルサレムに近づく中で、「自分の息子たちのために」という切実な思いで願い出たのでしょう。20・21節です。(マルコでは母ではなくて本人たちになっていますが本当の所はよく分かりません。)この後の出来事を知っている私たちには、彼らが何を願ってしまったか、またその結末がどうなるか分かります。しかし彼らはまだ何も分からないので、杯が飲めると勇ましく答えます。22・23節です。杯はもちろん、苦難であり十字架であり殉教です。
 これを聞いて、他の十人が腹を立てます。そしてそれをきっかけにして、主イエスは大切なことを教えます。24~28節です。少し穿った見方をしますと、ここには、偉くなるための方法が描かれているようにもみえます。しかし断じてそうではありません。主イエスが、仕えるために、自分の命を献げるために来られた。それと同じように、ということは、その前に、「神と等しいものであることに固執」しないで、「人間と同じ者に」なられた(フィリピ2章)主イエスの現実があります。私たちも、偉くなりたいからではなくて、仕えるためにこそ、今を生きましょう。

2020年1月24日「ぶどう園の労働者」(マタイによる福音書20章1~16節)

 結婚・離婚、子ども、財産と、私たちに身近な三つの事柄の後、主イエスは弟子たちに「神は何でもできる」と仰り、また、主イエスに従った弟子たちに大きな報いを約束なさいました。次回は三度目の死と復活の予告です。その間に挟まれて、このぶどう園の労働者の例えがあります。しかもこの例えは、前回最後の30節と今日の最後の16節で囲い込まれて、この言葉の説明にもなっています。まずわきまえておきたいことは、このたとえが天の国(神の国、神の支配)の例えだということです。
 この主人は、この世界の感覚から致しますと、とても理解できないことをしています。合理的な雇い主であれば、今日自分のぶどう園に必要な労働者を計算し、朝一番にその人数を雇えばそれでよいのです。この主人は、そうではなくて、何回も雇いに行き、終いには僅かしか働けない5時にまで、雇います。そして全員に一デナリオン払います、約束通りに。
 しかしこの賃金を払う順番が不平不満をよびます。8節です。案の定、不満が出ます。最後までまとめて読みましょう。9~16節です。この話は、天の国の例え話です。天国(永遠の命)に関しては、このように、後の者が先になり、先の者が後になるのだと、主イエスは仰います。以前未受洗の方が、自分は死ぬ直前に洗礼を受けたいのだと言いました。最後天国へは行きたいのだけれども、今洗礼を受けてしまってキリスト者になって、様々な義務・やらなければならないことが生じるのはいやだ。死ぬ直前まで自分の好き勝手に生きて、そして最後は救われたい。後の者が…からすると、これは最も合理的なやり方ではありましょう。
 ここで私たちが問われるのは、キリスト者となってからの生きる姿をどう捉えるのか、ということでしょう。確かにキリスト者として生きるのは、お気楽なことではありません。様々な労苦を背負うことになります。しかしぶどう園の労働者のことを考えてください。彼らは日雇い労働者です。一日中仕事にありつくことができなければ、(家族も含めて)食べることもできません。しかし早くに雇われた人は、「今日の糧は大丈夫」という安心感をもって生きることができます。働くことができない間の不安・焦燥感を思えば、ぎりぎりで間に合った人々について、神の気前のよさに心を合わせて、私たちも喜ぶ事ができるし、それこそ神が求める伝道の姿勢なのではないでしょうか。

2021年1月17日「新しい世界へ」(マタイによる福音書19章23~30節)

 今日の聖書箇所は、前回(先週)、金持ちの青年が悲しみながら去っていった後で、弟子たちと語られた箇所です。まず主イエスは、金持ちが救われることの難しさを語ります。それに対して、弟子たちが驚きます。23~25節です。この弟子たちの驚きは、山上の説教などで主イエスの教えを知っていればありえないことです。しかし当時の常識(金持ちは、神に従うから神からの恵みとして金持ちなのであり、天国もその延長上にある)からすれば、よく分かります。「だれが…」という弟子たちの嘆きに主イエスは答えます。26節です。「神は何でもできる」。これこそ信仰の要・急所です。救いようのない私たちが、それでもなお、救いを確信することができる、それは、神は何でもできることを主イエスの復活によって、知っているからです。十字架の罪の赦しを知っているからです。

   次のペトロの問いと主イエスの答えはここまでの文章の流れからすると、少し不思議です。27~29節です。むしろその前の、金持ちの青年との対比で、ペトロは語ったのでしょう。しかしこの後の出来事(ペトロの否認など)をみると、ここで主イエスが報いを語っているのはおかしなこと、叱責すべきではないかとさえ感じます。しかし主イエスは報いを約束なさいます。これはまた、私たちへの励ましではないでしょうか。たとえ私たちがどんなにたどたどしい歩みであったとしても(完璧で英雄的な歩みではなかったとしても)、主イエスは私たちに報いを約束してくださる。来るべき新しい世界で、そのような豊かな主の報いがあることに、私たちは信頼してよいのです(マルコの報いとの違いに注目)。来るべき新しい世界へと私たちは招かれています。この世界がまだそうなっていないとしても、私たちはこの新しい世界を知っており、この新しい世界への希望と期待をもって、今を生きます。
 最後、30節です。次回のぶどう園の労働者のたとえでその意味をみましょう。