これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年2月7日「何をしてほしいのか」(マタイによる福音書20章29~34節)

 次回はいよいよエルサレム入城です。エルサレム入城の前には、多少の違いはあるものの、共観福音書では全て、盲人の癒しがあります。終末の先取りの意味です。マタイではまず、エリコが描かれます。エルサレムの直前、最後の宿です。29節です。大勢の群衆とは、入城の際の一つの背景です。ここに現れるのが二人の盲人です。30・31節です。叱りつけられても、諦めないで更に叫ぶ、ここに諦めない信仰の模範を読み取ることもできるでしょう。
 次に、32・33節です。ここで注目すべきことは、主イエスが「何をしてほしいのか」とたずねておられることです。エルサレムへ向けて、主イエスは急いでいたはずですから、さっと癒してそこを後にしても良かったでしょう。しかし、わざわざたずねます。これは、21節と同じ言葉が使われています。盲人の二人ですから、目を開けてほしいのだということは、聞くまでもなく分かるでしょう。しかしあえてたずねることで、二人の盲人は、今一度自分たちの願いが何であるか、自問自答することとなります。それは前回の箇所で、よく分かっていないのに、玉座の左右を願ったのと、対照的です。主イエスが傍らを通り過ぎる(この通り過ぎるというのは、旧約聖書で神顕現)ときに、私たちは何を願うのでしょうか。この盲人たちが、肉体の目が開かれることを願ったように、私たちの心の目・信仰の目が開かれるように願うのでしょうか。それとも、前回の弟子たち(の母親)が願ったように的外れなことを願うのでしょうか。
 人生の様々な場面で、私たちは様々な願いをもつものです。しかしその願いは、本当に神の御心に適った願い、救い・永遠の命・天の国への願いであるかどうか吟味する必要があるでしょう。