これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年3月13日「一つだけ」(ガラテヤの信徒への手紙3章1~6節)

 今日の聖書箇所は、勿論前回までの聖書箇所に繋がっているわけですが、かなり厳しいことが語られています。1節です。問題は、福音か律法か、です。そして異邦人キリスト者にも、「十字架につけられた姿」がはっきりと示されました。にもかかわらず、そのような福音で・霊ではじめられたことを律法・肉で仕上げようとしてしまう問題です。
 パウロは、「一つだけ確かめたい」といいます。2~5節です。神の霊を受けたのは、律法を行ったからか、福音を聞いて信じたからか。そもそもの始まりは、律法の実行・行いによるのではなくて、ただ一方的に、福音を与えられたからでした。誰もみな、福音を聞いて、そしてそれを信じて、聖霊が与えられます。律法と福音の問題は、「あれもこれも」の問題ではなくて、「あれかこれか」の問題なのです。
 ソロモンが、近隣の大きな国々とうまくやっていくために、大勢の女性たちと結婚して、それぞれの神々の像を作ってしまったときのことを思い起こします。ソロモンは、唯一なる神を裏切ったつもりはありませんでした。ヤーウェも信じるけれども、他の神々がいてもよいと考えたのです。神の民、イスラエルの裏切り、背信は、たいてい、そのようなものでした。しかし、唯一の神を信じるならば、それ以外の神々など、ありえません。律法と福音の問題もこれと同じです。ただ一方的に与えられる福音、霊のたまものを与えられるならば、それに付け加えるものなど、一切ありえません。福音・霊ではじめたものを、律法・肉で仕上げることなどできません。あなたがたは、福音を聞いて信じたのだから、律法に逆戻りするはずがない、と、パウロはいうのです。
 そしてその具体的な例として、アブラハムがいます。6節です。アブラハムにおいて確かに律法(厳密にはモーセのときですが)も割礼も与えられました。しかしそれよりも前に、まずアブラハムが信じて、それゆえに神は彼を義と認めました。ガラテヤの諸教会に入り込んできつつあった、キリスト・福音だけではだめで、律法を行うことも大切だとする人々に対してパウロははっきり「否」をつきつけます。なぜならば、福音以外のものが必要たと言い出すとき、福音・キリストはないがしろにされてしまうからです。

2022年3月6日「ペトロを非難する」(ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節)

 今日の聖書箇所は、前回と合わせて、パウロがペトロ(ケファ)を非難する箇所です。主に前回の箇所で実際にパウロがペトロを非難した様子が描かれていました。今日は、その理由・事情を描きます。
 まず15節から、一人称が「わたしたち」になります。これは、パウロだけのことではなくて、ケファなど、すべてのユダヤキリスト者がここには入っているということです。15・16節です。私達からみますと、「異邦人のような罪人」という表現自体がいかがなものかと思います。しかしユダヤ人は、異邦人をそのようにみていました。ただし、パウロユダヤ人の見方をそのまま引き継いでいないことは、この箇所の律法の実行ではなくて、キリストへの信仰によって義とされるという言葉で分かります。ユダヤ人といえども、律法の実行によっては義とされないので、結局は信仰による他ありません。
 17~19節、少し面倒な議論がされています。律法によって義とされることはないのだから、もう一度律法による義という「自分で打ち壊したものを再び建てる」ことはできません。パウロは「神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだ」のです。それはキリストと共に十字架につけられていることです。ペトロ(ケファ)も同じように(前回の使徒言行録の箇所参照)、既に律法に対して死んだ(キリストと共に十字架につけられている)はずであり、それゆえ、再び異邦人との会食を拒むことなど、本来ありえません。
 そういう文脈でパウロは、もはや生きるのは私ではなくて、私の内にキリストが生きておられると述べます。20・21節をみましょう。パウロの激しいペトロ(ケファ)への反対は、キリストの死を無意味なものにしないためです。
 私達も、様々な場面で、配慮とまっすぐ生きることとの間で揺れ動きます。いつも必ずこうすることが正解だというものはありません。与えられたそれぞれの場面・場所で、キリストの死を無意味なものにしない選択ができるように、神に願い求めましょう。

2022年2月27日「信仰によって生きる」(ガラテヤの信徒への手紙2章11~14節)

 今日の聖書箇所は、次回と合わせて、パウロがペトロ(ケファ)を非難する箇所です。主に今日の箇所で実際にパウロがペトロを非難した様子が描かれています。次回はその理由・事情を描きます。まず11節で、面と向かって反対したことを語ります。11節です。それは、アンティオキアの教会へペトロが来た時の行動に対してです。12・13節です。ペトロは以前に特別な幻を見て、異邦人と食事を共にすることができるようになっていました(使徒言行録10章9~16節参照)。ユダヤ人の食べ物についての禁忌にも関わらず、です。
 それなのに、ヤコブのもとから来た人々(この人々とヤコブの関係、またこの人々の考え方はよく分かりません)に恐れをなしてしり込みしてしまいます。ペトロにしてみれば、彼なりの配慮だったのでしょう。ユダヤキリスト者たちをつまずかせないために。そしてそれは、一見すると、前回の合意(パウロたちは異邦人へ、ケファたちは割礼を受けた人々のところに行く、9節)に適っているようにみえます。しかしこの場所は、アンティオキアです。異邦人教会です。ペトロの一見正しい配慮は、異邦人キリスト者ユダヤキリスト者とは異なり、二流の亜種のキリスト者だと思わせるに十分なものです。
 だからパウロは批判します。14節です。パウロからみれば、ペトロの配慮は、「福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていない」としか受けとれませんでした。
 私達は、いつも配慮することとまっすぐ歩くこととの間で揺れ動きます。そして配慮する方が争いや諍いがおきないので、そちらに流されがちです。確かに、いつも頑なに「これが正しいのだ」と行動するのも問題があります。いったいどこでどのように、私達は配慮すべき場面と福音の真理にのっとってまっすぐ歩くべき場面を見分けるのでしょう。信仰によって生きる時にだけ、私達は正しく判断できます。次回にそのことをもっと丁寧にみていきましょう。

2022年2月20日「福音の真理が」(ガラテヤの信徒への手紙2章1~10節)

 今日の聖書箇所は、前回の出来事から、14年経っています。1節です。パウロは、バルナバと共にテトスも連れて行きました。ただしそれは、エルサレムから呼び出されて出頭したのではありません。2節です。この「啓示」が具体的に何を指すのかは、分かりません。「無駄に…」の中身は、パウロに敵対する者たちがいうように、割礼が必要だという可能性を示唆しているのではありません。ただ、エルサレムの初代教会とパウロたちの異邦人教会とが全く別の道を歩むことになると、異邦人教会は、神の民を離れた根無し草になってしまう、そのことを用心したのです。
 彼らはパウロたちを非難するどころか、何の強制もしません。3~6節です。偽の兄弟たちのことなど、語るべきことは幾つかありますが、今日は省きます。ただ彼らがテトスに割礼を強制しなかったことは、異邦人の福音のあり方を認めたことになります。それは、福音の真理(5節)がゆがめられないためです。福音は、割礼や律法によるのではありません。ただキリストの福音によります。パウロが何よりも大切にしていたこのことが、認められます。
 彼らは、強制しないばかりか、ペトロたちユダヤキリスト者の教会と異邦人教会の並立と連帯を認めます。7~9節です。この握手は、両方の教会が普段別々の歩みをしていても、一つのキリストの教会であることを示しています。そして両方の教会の交わり・連帯のしるしとして、貧しい者たち(エルサレム教会の人々)のための献金があります。10節です。
 代々の教会は、パウロをはじめ、多くの方々が、福音をねじ曲げようとする力と戦って、教会を成り立たせてきました。私達も、何が守り抜かなければならないもので、何が寛容に受け入れてよいものか、判断する力を神様に願い求めましょう。

2022年2月13日「パウロのことで」(ガラテヤの信徒への手紙1章18~24節)

 今日の聖書箇所は、前回申し上げましたように、前回の箇所と一纏まりです。パウロの改心後のことが描かれています。11・12節の言葉を裏付けるようにパウロは語ります。前回の最後に、パウロは、ダマスコに戻るまでの様子を簡単に書きました。16節後半から17節です。
 そして今日の箇所は、それから3年後です。18~20節です。何年も経ってから、パウロはケファ(ペトロですね)に会いに行きます。ケファの他には、ヤコブにしか会っていません。使徒言行録の描き方とは矛盾するかのようですが、20節のように述べますから、そうなのでしょう。この記述もパウロの、人からではなくて、イエス・キリストの啓示だという証言を裏付けています。
 最後、21~24節です。シリア、キリキア地方へ行く以前、アラビアに退いたときには、パウロはその後の伝道の準備、修行をしていた、という説が有力でした。そう読むことも勿論できますが、実はパウロはアラビアでも伝道をしていたという説もあります。なぜなら、パウロは改心の時に、「福音を異邦人に告げ知らせる」という召命を受けているからです。実際はどちらか分かりませんが、パウロが改心後(ダマスコでの出来事以降)異邦人伝道のために生涯をささげたことは確かです。
 そのようなパウロの伝道活動を聞いて、「キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々」は、神をほめたたえます。教会同士の交わりが大切なのは、また教会の中での交わりが大切なのは、一つにはお互いに励まし合うためです。そしてその一つの姿は、相手のことで神をほめたたえることです。迫害していた人物が、180度変わって、熱心な伝道者になることは、確かに神をほめたたえるに十分な事柄でしょう。
 今日からはじまる新しい一週間、私達も、自分の事柄だけではなくて、教会の仲間のうちで、また教会同士の交わりの中で、神をほめたたえる歩みをしましょう。

2022年2月6日「母の胎内にあるときから」(ガラテヤの信徒への手紙1章11~17節)

 今日の聖書箇所は、本来24節までで一纏まりです。しかし長すぎるので、今日は段落の変わる17節までにします。最初の2節で、前回の箇所に続くような、福音の由来が語られます。11・12節です。人から受けたのではなくて、イエス・キリストの啓示によって知らされたというのは、決して教会の・人間の伝承を否定するものではありません。そうではなくて、決定的な福音の出来事は、パウロのダマスコ途上の出来事のように、劇的な場合もあれば、本当に静かな場合もありますけれども、「啓示」としかいいようのない神の働きによるのだということです。
 そしてパウロは、実際にどうであったかを語ります。(使徒言行録にもパウロの回心の体験は三回にわたって述べられますが、二次資料です。)まずキリストと出会う以前のパウロです。13・14節です。熱心なユダヤ教教徒でした。熱心にキリスト者を迫害していました。
 そんなパウロがキリストと出会います。15~17節です。主イエス・キリストと出会ったとき、パウロは、自分が母親の胎内にいるときから(つまり生まれる前から)選び分かたれていたことに気づくのです。それは、福音を異邦人に告げ知らさせるためでした。このことからも、11・12節の言葉が、教会・人間の伝承を否定するものではないことが明らかです。神は、使徒をはじめ、私達人間を通して福音を伝えます。しかし、私達一人一人の人間にとって、この福音が、単なる理屈・知識ではなくて、自分の実存に関わる救いの出来事だと得心するためには(それゆえ母の胎内にいる時から自分が選ばれていたのだと分かるのは)、啓示によるしかないのです。もしもあなたがまだ救い・福音を信じておられないならば、この啓示を神に祈りましょう。もしも信じておられるならば、この救いの確信をより確かなものにして頂くように、神に祈りましょう。

2022年1月30日「他の福音などない」(ガラテヤの信徒への手紙1章6~10節)

 前回申し上げましたように、最初の挨拶の後には、普通、謝辞がきます。しかしこのガラテヤの信徒への手紙ではかなり厳しい言葉が続きます。6節です。「あきれ果てる」は、「驚く」とも訳すことのできる言葉で、当時の文学様式としては用いられていました。しかしこういう表現がパウロで出てくるのは珍しいのです。ガラテヤ地方の教会で、パウロが開拓伝道した後でやってきた巡回伝道者たち(現在のように教会づけの伝道者が普通で、巡回伝道者が珍しいのとは異なり、当時は普通でした)が、濃淡も理由も様々ですが、割礼を受けてユダヤ人になるべきだという主張をしていたようです。そういう主張をパウロはこの節で「ほかの福音」といいます。
 しかしパウロは、この表現は適切ではないと感じたのでしょう。次の7節で、否定します。惑わそうとする「ある人々」の主張の中身はまだ描かれていません。しかしパウロは、それを「もう一つ別の福音」とは捉えません。パウロは、まだ福音が教理的には確立していない初代教会にあって、ときには柔軟・寛容に、ときにはとても厳しく対します。パウロの後に雄弁なアポロがきて、多少パウロと異なることを教えてもパウロは認めます。更に、フィリピの信徒への手紙では、パウロをおとしめようとして宣教する人々でさえも、パウロはそれで福音が広がるならばと、許容しています。しかしガラテヤに後から来た巡回伝道者については、事情が違います。その決定的な違いは、福音は、神の一方的な恵みであって、私達人間の側には何も要件・必要となることはないのだということです。そこをないがしろにする主張とは、パウロはあくまで戦います。
 それは呪いの言葉さえ口にする厳しいものでした。8・9節です。本来の福音に反する事柄が主張されるならば、呪われるがよい、それがたとえ自分たち自身であれ天使であれ。とても強い口調です。
 これは一歩間違うと、破壊的カルトになりかねない危険をはらんでいます。教理がまだ確立していないのに、「この福音が絶対だ」というのは危険なことです。しかしパウロはまたこう述べます。10節です。パウロは(人間に巧みに取り入って自分の精神的な奴隷にしようとするカルトとはま逆に)、ただ神の気に入られようとするキリストの僕です。私たちも、忖度ばかりで真実の中身のない歩みではなくて、真実の福音を生きましょう。