これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2022年3月6日「ペトロを非難する」(ガラテヤの信徒への手紙2章15~21節)

 今日の聖書箇所は、前回と合わせて、パウロがペトロ(ケファ)を非難する箇所です。主に前回の箇所で実際にパウロがペトロを非難した様子が描かれていました。今日は、その理由・事情を描きます。
 まず15節から、一人称が「わたしたち」になります。これは、パウロだけのことではなくて、ケファなど、すべてのユダヤキリスト者がここには入っているということです。15・16節です。私達からみますと、「異邦人のような罪人」という表現自体がいかがなものかと思います。しかしユダヤ人は、異邦人をそのようにみていました。ただし、パウロユダヤ人の見方をそのまま引き継いでいないことは、この箇所の律法の実行ではなくて、キリストへの信仰によって義とされるという言葉で分かります。ユダヤ人といえども、律法の実行によっては義とされないので、結局は信仰による他ありません。
 17~19節、少し面倒な議論がされています。律法によって義とされることはないのだから、もう一度律法による義という「自分で打ち壊したものを再び建てる」ことはできません。パウロは「神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだ」のです。それはキリストと共に十字架につけられていることです。ペトロ(ケファ)も同じように(前回の使徒言行録の箇所参照)、既に律法に対して死んだ(キリストと共に十字架につけられている)はずであり、それゆえ、再び異邦人との会食を拒むことなど、本来ありえません。
 そういう文脈でパウロは、もはや生きるのは私ではなくて、私の内にキリストが生きておられると述べます。20・21節をみましょう。パウロの激しいペトロ(ケファ)への反対は、キリストの死を無意味なものにしないためです。
 私達も、様々な場面で、配慮とまっすぐ生きることとの間で揺れ動きます。いつも必ずこうすることが正解だというものはありません。与えられたそれぞれの場面・場所で、キリストの死を無意味なものにしない選択ができるように、神に願い求めましょう。