これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年8月13日「主イエスをも動かす信仰」マルコによる福音書7章24~30節

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 前回までは、イスラエルの民の話でした。主イエスが、「汚れ」とは何かについて丁寧に教えても弟子たちさえ理解しません。今日の箇所は対照的に、異邦の女、シリア・フェニキアの生まれのギリシア人の女です。24~26節。病気の子どもを持つ親の思いは、大変なものです。悪例にとりつかれているとしか表現できない子どもの病にこの母親はうちのめされていたことでしょう。何とか主イエスに癒して欲しいと願い、主イエスの前にひれ伏します。しかし主イエスの言葉は厳しい。27節。この主イエスの言葉は、主イエスの、神から「誰に」遣わされているかという自覚を正確に表しています(その後の女の反応を引き出すためだととる必要はない)。しかしこの女は引き下がりません。28節。この言葉が実に見事です。主イエスの仰ることを全く否定せず、自分の幼い娘を癒す可能性を示します。最後、29・30節。「それほど言うなら」は、以前の口語訳の「その言葉で十分である」や文語訳「なんぢこの言によりて(安んじ)往け」の方がよいでしょう。
 主イエスはこの女の信仰のどこに、自分の使命感を広げる(もはやユダヤ人にだけ遣わされているのでなくて、異邦人のためにも自分は遣わされている)ほどのものをみたのでしょう。三つのことを申し上げましょう。まず第一にこの女の信仰は、(私達がついしてしまいがちな神を脅す信仰ではなくて)ひれ伏した、へりくだったものであったことです。25節でひれ伏した後、女はひれ伏したままで主イエスと語らう。「自分(の娘)は、癒されて当然だ」という傲慢な態度ではありません。しかしまた第二に、この女には、主イエスに対する信頼が溢れています。食卓から落ちたパン屑ほどの恵みでも、癒し・救いに十分だと信じています。そして第三に、何とかして欲しいという必死さが、このウィットに富んだ言葉になっています。私達も、主イエスの前にひれ伏す信仰を生きましょう。