これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年6月25日「驚くほどの不信仰」マルコによる福音書6章1~6節前半

Download

 今日の聖書箇所は、聖書本文ではない表題では、「ナザレ」となっていますが、本文では、「故郷」だけです。1・2節。人々は、主イエスの語る言葉、主イエスのなさる奇跡の業に驚きます。しかしその驚きは信仰へと成長しません。3節。主イエスの子ども時代や青年時代を知っている、主イエスの家族(母、兄弟、姉妹)を知っている、そのことが妨げになって、つまずいてしまいます。私達が「生身のイエス様を知っていたら素晴らしいのになあ」という憧れとは正反対に、人々はつまずきます。しかしこの時にはつまずいたとしても、後の教会には主イエスの兄弟たちが大切な働きを担っていることから、それが全て、それが結果でないことは明らかです。主イエスは仰います、4節。これは当時普通にあった格言で、私達にも分かる感覚です。このような不信仰の只中で、5節、6節前半。ここでは、主イエスに「おできにならない」、できないことがあったこと、主イエスが「驚かれた」ことが書かれています。後の教会の歴史では、主イエスを高くあげるあまり(カトリックのマリア崇敬などはその例でしょう)、こういう記事は読みづらく(または、色々弁解めいたことを付けて読む)ようになりました。しかしその必要はありません。主イエスは、神であられると同時に人であられます。罪は犯さなかったとしても、人間としての様々な限界や特徴をもっています。前回見たように、服に触れる女やヤイロのように、必死の信仰があるところに、主イエスの不思議な業は働きます。自分の知識の範囲で主イエスを理解し、そこに押しとどめてしまう不信仰には、主イエスの力が働く余地は(あまり)ありません。この「不信仰」は私達にとって、人ごとではありません。私達が主イエスを驚かせるほどの不信仰であるがゆえに、主イエスは十字架にかけられて死ななければならなかったのです。さあ私達は、主イエスの十字架と復活によって、不信仰から信仰へ変えられたことを感謝し、また、熱心な信仰を生きましょう。