これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年12月17日「神の言葉はとこしえに」イザヤ書40章1~11節

 今日はアドベント最後の礼拝ですので、講解説教をお休みして、アドベントに比較的よく読まれる聖書箇所です。第二イザヤの最初です。バビロン捕囚の辛い厳しい現実の中にいる人々に対して、慰めが語られます。1~5節は、素直に慰めと励ましの言葉です。それに対して、この呼びかけに対して、預言者第二イザヤが答えます。6・7節。ここで預言者は、バビロン捕囚の中で苦しんでいる、絶望している民と共に神に抗います。イザヤもエレミヤも、最初の召命の時には抗いました。第二イザヤもそうです。ただ第二イザヤの特徴は、この箇所にしか、個人的なことが何も出てこない(これ以降は全て預言者本人の姿は隠れてしまう)ことです。そして人間的には絶望しかない状況の中で、しかもこの絶望が単に自分たち捕囚民の絶望ではなくて、人間存在全ての絶望であることが示される中で、しかし人間に根拠を置かない希望の根拠が示されます。8節。私達人間の中に根拠を持つ希望は全て虚しい。これは冷静に考えれば、事実です。私達は、バビロン捕囚の人々に比べればはるかに恵まれた状況にありますが、それでもそうです。しかし神の言葉はとこしえに立つ。神の言葉は、むなしく戻ることはないのです(55章11節)。とこしえに立つ神の言葉が、この絶望的にも見える世界で、とても具体的に働いています。だから私達は希望があります。9~11節。よい知らせが伝えられるべきです。神が力を帯びて来られ、御腕をもって統治されるのですから。神の言葉の具体的な人としての現れがイエス・キリストです。私達は、この世界にみどりごとしてお生まれになった神の言葉のゆえに希望を生きることができるし、その事実を宣べ伝えていきます。