これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年12月8日「実で見分けよ」(マタイによる福音書7章15~23節)

 前回までにこの山上の説教で主イエスは、主イエスの御後に従っていく弟子たち、私達キリスト者の生き方を教えてくださいました。その最後にあたって、まず私達は求める(祈る)ことの大切さ、そして多くの人が見落として気が付きもしない狭い門から入ることの大切さを教えられました。
 今日の箇所は、そのように狭い門から入ろうとする私達を邪魔する偽預言者に警戒しなさいという箇所です。15節。一目で分かるものではありません。だから、16~20節。植物の例えを用いて主イエスは、預言者と偽預言者の決定的な違いを語ります。私達は、実で見分ける必要があります。

 しかしこれがまた難しいのです。後半をまとめてみてみましょう。21~23節。偽預言者もまた、「主よ、主よ」と言います。更に、主イエスの名によって、預言し、悪霊を追い出し、奇跡を行います。狼がまとっている羊の皮は、それほどに巧みです。このような現実の中で、私達はどのような「実」で見分けるのでしょう。何よりも、主イエスと共にあって、天の国に入ることです。私達が偽預言者に騙されないで、また偽預言者にならないで生きる(偽預言者は自分たちが偽預言者であることにすら気が付いていません)ために必要なことは何でしょう。私達が主イエスを知り、主イエスに私達を知っていただくことです(「あなたたちのことは全然知らない」の逆)。そういう文脈で、「実を」を考えますと、それは、自分の力に頼らないで、ただ主イエスの十字架だけにより頼む姿なのではないでしょうか。それは決して偽善的な見せ掛けのことではありません。茨なのにぶどうが採れるふりをすることではありません。私達は、キリスト者として生きる上で、確かに努力は必要です。しかしそれは、偽善者としての不自然な努力ではなくて、主イエス・キリストの後に従っていこうとする時に自然と沸き起こってくるものなのです。アドベントの今、主イエスの後に従う自分の姿を今一度振り返ってみましょう。