これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2019年8月25日「完成するために」(マタイによる福音書5章17~20節)

    前回、私たちが、何の功績もなくても、ただ主イエスの弟子であるというだけで、既に地の塩・世の光だという聖書箇所でした。今日から、律法に関する箇所に入ります。私たちはキリスト者になったからといって、ユダヤ教の律法を遵守したりはしません(一部の異端と正統のすれすれにあるキリスト教は別として)。祭儀律法などは、ほぼ無視、それどころか、そもそも知らなかったりするのではないでしょうか。ところが主イエスは、17節。律法や預言者とは、旧約聖書のことですが、中心は律法でしょう。18節。律法は神が与えて下さった掟です。イスラエル・神の民は、この掟を守り、神はその者たちを神の民として恵みの内に置く。そういう契約です。モーセのときに、本格的に律法は与えられましたが、その最初からイスラエルは神に逆らいました(参照、金の子牛の像事件)。旧約聖書は、神の民が神を裏切り、神に叱られて神のもとへ帰る、その繰り返しです。その最後に、神は、イエス・キリストを与えて、律法をどうしても守ることができない私たち人間を救おうとなさいました。しかしそれは、律法を廃止することではないと主イエスは念を押されるのです。19節。ここで注目したいのは、たとえ最も小さな掟を一つでも破り、またそれを勧める者があったとしても、その者は確かに天の国で最も小さい者と呼ばれるとしても、天の国から締め出されてはいない、排除されてはいないことです。むしろ天の国に入れるかどうかの問題は、最後の節が語ります。20節。主イエスが、功績ではなくて、ただ主イエスを信じる信仰によって私たちを義とし救う。この神の救いを信じる信仰による義こそ、律法学者やファリサイ派の人々の義、行いによって獲得しようとする義にまさります。