これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年12月31日「主の杯を飲む」(マルコによる福音書10章35~45節)

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 今日だけ講解説教に戻ります。結婚(離婚)、子ども、金持ちであること、三つのことについて語った後、主イエスは先頭に立ってエルサレムへと進んで行かれます。三度目の受難予告に、主イエスの覚悟、自分が殺される覚悟が読み取れます。そこへゼベダイの子、ヤコブとヨハネがお願いをします。ちなみにマタイ福音書では願い出るのを母にしており、ルカ福音書ではこの記事自体を省いています。35~37節。今までに何回もみてきました弟子たちの誤解がここにもあります。今主イエスが説明してもまだ分かりませんから、主イエスは仰います。38節。杯と洗礼が何を意味するかが議論されています。一つ、背景にあるのは、聖餐と洗礼です。しかしゲツセマネの祈りからも分かりますように、杯とは、十字架、十字架の死です。実際ヤコブは殉教しました(使徒言行録12章)。しかしヨハネがどうなったのかは分かりません。両方の伝説があります。しかし主イエスは言われます。39・40節。殉教するかどうかに関わらず、主イエスの弟子として、主イエスの後に従って生きる生活には、苦しみがある。前回の、この世で百倍受けるという約束でも「迫害も受ける」ことが明確に言われいました。主イエスの弟子として歩むならば必ず苦しみがあるというのではたまらないということで、他の多くの宗教にみられるような、二つのグループがキリスト教の歴史の中でも形作られました。しかし私達プロテスタントは、役割の上で牧師と信徒との区別はしますが、この兄弟に語られた言葉を私達皆への言葉として受け止めます。人ごとではない、あなたが求められています。
 この二人のことで、残りの十人の弟子たちが怒ります。41節。そこで主イエスは、今一度丁寧に主イエスの弟子として歩むことを教えます。42~45節。主イエスの後に従っていく道は、外からみれば大変な困難な歩みです。しかし主イエスが既に「身代金として自分の命を献げ」て下さった。だから私達はこの世界の価値観とは全く異なる、仕える生き方を喜んで生きるのです。