これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年10月7日「わたしの血が注がれるとしても」(フィリピの信徒への手紙2章16前半~18節)

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 この手紙は、今まで繰り返し述べてまいりましたように、獄中書簡であり、また喜びの手紙です。そのことが今日の箇所では如実に表れています。17・18節です。でもその前に、16節後半をみてみましょう。フィリピの教会の人々が、命の言葉をしっかりと保って星のように輝くならば、パウロはキリストの再臨の日に誇る(喜ぶ)ことができます。伝道者、パウロにとっては、教会の人々の救いこそ、自分の誇り・喜び・救いです。この箇所をパウロのエゴと読むことはできません。なぜならば、パウロは、もはや自分が働くのではない、私の内にキリストが働くのだ、全ては神がなさることだと分かっています(例えば、直前の13節。1章6節。また、一コリント15章10節など)。パウロが誇るのは、決して自分個人の成果ではありません。神の恵みの出来事です。皆さんは、自分の人生を「無駄ではない」と誇ることができるでしょうか。できます。なぜならば、皆さんもまた、この救いに入れられているからです。私達の労苦は無駄にならないからです(一コリント15章58節)。だからこそ、パウロは自分の殉教(の可能性)にあってなお、喜ぶし、喜ぶことを勧めます。17・18節。私達伝道者は、皆、この点でパウロと同じです。更に、信仰を同じくする皆さんも、死を超えた喜びに生きることができます。このことは、理屈では簡単な・単純なことです。しかし私達は、単なる罪赦された罪人にすぎませんから、なかなかそうはいきません。同労者の死は、やはり、大きな悲しみと喪失感があることでしょう。だからこそ、パウロは、丁寧に、「わたしと一緒に喜びなさい」と勧めます。私達もまた、聖霊によって、「血が注がれるとしても」喜ぶことのできる喜び・信仰を身に着けましょう。