これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2018年7月22日「口実であれ、真実であれ」(フィリピの信徒への手紙1章15~19節)

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 前回から手紙の本文に入りました。パウロは自分の状況(獄中でどうであるか)よりも、ひたすら福音の前進に集中しています。ますます勇敢に御言葉が語られるようになったことをフィリピの教会の人々に伝えます。それは必ずしも、良い動機によるものばかりではありませんでした。15~17節。人間パウロに対する全く正反対の動機から伝道する人々がいました。ねたみと争いの念から、自分の利益を求めて、不純な動機の人々もいれば、真逆に善意で愛の動機から伝道する者たちもいます(ここは交差法です)。
 しかしパウロにとっては、そんなことはどうでもよいのです。18節。パウロにねたみと争いの念をもって伝道する人々がどんな人々なのか、詳しくは分かりません。しかし確かなことは、彼らが宣べ伝える福音そのものは、間違ってはいません。この手紙でも、パウロは、福音に反する間違った教えについては、断固として反対します。「まあ多少間違っていても、一応伝道ではあるのだからいいだろう」といういい加減な態度ではありません。ですから、この箇所に出てくる敵対的な人々も、パウロには否定的でも、正しい福音を宣べ伝えています。口実でも真実でもいい、とにかくキリストが告げ知らされています。だからパウロは喜びます。私達が人間的に考えれば、自分に敵対する人々は、直ちに福音に敵対していて否定すべき人々だとなるでしょう。しかしパウロの判断には、「自分」は勘定に入りません。キリストが告げ知らされていれば、パウロは喜びます。19節。あなたがたの祈りとイエス・キリストの霊の助けがあります。私達は罪の現実を知る時に、とても私達に福音・キリストを告げ知らせる資格などないことがよく分かります。しかし前回の箇所で、パウロが「福音の前進」と語ったように、福音そのものがそのものの力で前進していく、そのことのために私達は用いて頂くことができます。だとすれば、個々人の動機がどうであれ、(自分自身のことは脇に退けて)私達は福音の前進、キリストが伝えられることを喜びます。