これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年3月21日「ぶどう園と農夫」(マタイによる福音書21章33~46節)

 今日の聖書箇所最後で、小さな権力者たちは、この二つの例えが自分たちのことを言っていると気が付きます。しかし(ここでも)群衆を恐れて、主イエスを捕らえたいけれどもできません。45・46節です。
 この例え話は、途中までは実際にありそうなことです。33~35節です。資本主義、資本家と労働者というところまで話を広げますと、とてもややっこしい議論になってしまいます。しかしそうではなくて、単純に考えれば、この農夫たちが間違っていることは明らかです。最初に契約したことに反して、全部を自分たちのものにしようとして、人殺しまでします。
 ここからの主人の行動が異常です。また農夫たちのすることも異常です。36~39節です。最初に派遣した僕たちが殺されたのであれば、主人は、すぐに、「悪人どもをひどい目に合わせて殺し」(41節、小さな権力者たちの言葉)ても、よかったはずです。しかし主人は、更に僕を派遣し、最後には自分の息子を派遣します。農夫たちはこの息子も殺してしまいます。ご主人を殺さない限り、農園を力づくで奪い去ることはできないので、この農夫たちのすることも異常です。なぜこんな異常な話になってしまったのでしょう。それは、イスラエルの現実を例えているからです。イスラエルの人々(ことに小さな権力者たち)は、旧約聖書の描く通り、次々に預言者(神の遣わす僕たち)を殺します。そして終いには(これからですけれども)神の派遣なさった、神の独り子、主イエスさえも殺します。彼らのフツウの答えに対して、主イエスは厳しく語ります。41~44節です。私達はこの例え話を、ただ当時の小さな権力者たちを批判する例え話として読むだけでよいのでしょうか。ほかの農夫、ふさわしい実を結ぶ民族は、当時のイスラエルではなくて、新しいイスラエル、私達異邦人だと喜んでこの例え話を読めばよいのでしょうか。そうではありません。なぜなら、主イエスは、私達の罪を赦すために十字架に死なれました。私達もまた、ぶどう園を任せるにふさわしい民族なのではありません。ふさわしくないにも関わらず、罪赦されて、ぶどう園(多くの実を結ぶ、福音、神の国)を任されました。もしも私達が、神様に収穫を差し出さないならば、やはり神の国は遠いでしょう。神のぶどう園を任せられている責任を自覚して歩みましょう。