これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2021年7月4日「忠実で賢い僕」(マタイによる福音書24章45~51節)

 前回から、「突然に」終末・再臨が来るのだという文脈です。しかもそれは、誰にでも分かる仕方で(27・28節)来ます。更にその時は、父なる神のみがご存じで、子なる神、イエス・キリストでさえ知りません(36節)。ノアの洪水の時のように(37節~)人の子は思いがけない時にきます。
 これから三つの例えでその出来事を主イエスは語ります。そして最後には、羊と山羊とを分けるようになされる最後の裁きが語られます。
 今日は一つ目です。今日の例えでは、対照的な二人の僕が登場します。忠実で賢い僕と悪い僕です。どちらも主人が留守の間、僕たちを委ねられます。まず主イエスは問います。45節です。この問いには少し否定的なニュアンスがあるように感じます。例えばイスラエルの宗教的指導者たちは、神から神の民を預っていながら、その役目を果たすことはできませんでした。主イエスの「ウーアイ」という嘆き(23章)がそれを示していました。更に、教会はどうでしょうか。マタイ福音書記者には、そのことへの自戒の思いもあります。
 忠実で賢い僕はどのようであるのでしょうか。46・47節です。すべての財産の管理をゆだねられます。これは奴隷として売られたヨセフが思い起こされます。主人から信頼された僕は全財産の管理を任されます。悪い僕の場合は真逆です。48~51節です。主人はまだまだ帰って来ないだろうと勝手に思い込んで好き放題をして、見つかってしまいます。厳しく裁かれて泣きわめいて歯ぎしりしますが、後の祭りです。
 今は教会の時です。主イエスの十字架と復活の時と、終末・再臨の間の時を神は私達教会にゆだねておられます。神様からゆだねられていることを自覚しましょう。いつ主人が帰って来てもよいように(終末・再臨がきてもよいように)、目を覚まして備えていましょう。忠実で賢い僕とは、そのように備えて生きる僕です。